僕と機械仕掛けと思い出(4)

 ドアが閉まる音ですら、いつもよりもずっと冷たく感じた。

 サーシャが出て行ってひとり残された部屋で、もやもやした気持ちは大きくなるばかりだ。僕は他の誰でもなくサーシャと離れたくないと思っているのに――彼は同じようには思ってくれていないのだろうか。悲しい考えに胸がぎゅっとなる。

 頭を冷やしなさい、だって? 取りすました態度を思い出すと頭の中がカッと熱くなって、ふわふわのクッションをソファから持ち上げて、思い切り床に投げつけた。

 少し前までこういうときの僕はすぐにべそをかいていた。最近は泣き出したい衝動を我慢できるようになった代わりに、気持ちが昂ると物に当たったりひどい言葉を口にしたくなる。暴力はいけないと頭ではわかっているのに気持ちを抑えることは難しい。物や人を傷つけるのは許されないとわかっているからクッションに八つ当たりするくらいでがまんするけれど……それでもモヤモヤは晴れそうにない。

 こんな気持ちのままではきっと帰ってきたサーシャとまた大きな喧嘩をしてしまう。そして、喧嘩をしたらもっともっと悲しくてやるせない気持ちになってしまうだろう。

 だから僕はキャビネットに歩み寄って「万が一」の引き出しを開けた。「万が一」の引き出しには、この家の合鍵が入っている。ひとりでの外出はほとんど許されていないから「これを使うのは、私が故障して助けを求めに出掛けるような、本当に万が一のときだけですよ」と言われていて、普段の僕はちゃんと約束を守っている。

 、アキヒコ・ラザフォードはいつだっていい子なのだ。

 少しだけ、ほんの少し気分転換をするだけ。公園にでも行って冷たく新鮮な空気を吸ったらぐちゃぐちゃした気持ちもすっきりする――ことはないだろうけれど、いくらかはましになるはずだ。

 もしも僕より先にチーズを買ったサーシャが戻ってきたら、心配するかもしれない。それならそれでいい気味だ。だって僕をこんな気持ちにさせたのはサーシャなのだから。少しくらい不安を味わって反省すればいい。

 僕は鍵を取り上げると玄関に向かって駆け出した。

 いつも散歩に行くのは駅の方にある、新しくてピカピカの遊具がある公園。でも、そっちへ行けば買い物から戻ってくるサーシャと鉢合わせてしまうかもしれない。それに、賑やかな公園に僕みたいな子どもがひとりでいると、誰かが迷子か家出だと勘違いしてうるさく話しかけてくるかもしれない。それは面倒だ、

 駅と反対側に歩くうちに、古くて小さな公園のことを思い出す。ベンの家に行く途中に近くを通ったことがある、背の高い木とベンチ、あとはバラの植え込みがあるだけの場所。あそこならきっと、静かだろう。

 いつも閑散としているそこを、サーシャは危ないと言っていた。でも、人がいないなら危ないことなんて起こりようがない。僕は目的地を定めた。

 十分もかからず到着した公園は、思ったとおりとても静かだった。きっと今日も誰もいない――そう思って中に足を踏み入れたときに、誰かが僕を見ている気がした。はっと顔を上げて、奥のベンチに目を向ける。

 そこには、ひとりの年老いた男の人が座っていた。

 僕のおじいさんよりもずっと歳をとっていて、小さくて痩せている。顔や手足は枯れ木みたいにかさかさに見えるのに、三揃いに帽子もかぶって、観劇に行くときのように身なりはきっちり整っていた。

「えっと……」

 僕は足を止めた。ひとりになりたくてこの公園に来たのに、先客がいるなら話は変わってくる。

 やっぱりここはやめて、別のところに行こう。川沿いの遊歩道なんてどうだろう。あそこにもくつろげるベンチがある。引き返そうと心を決めたところで、おじいさんはにっこりとこちらに笑いかけた。

「こんにちは、坊や」

「……こんにちは」

 挨拶されたら挨拶を返すこと。これもお母さんとサーシャの両方に厳しく教えられてきたことだ。でもそれと同時に「知らない人には十分に注意しなければいけない」とも言い聞かされてきた。おじいさんは悪い人には見えないけれど、知らない人であることに違いはない。僕は内心で厄介なことになったと思う。

「どうしたんだい、ひとりで」

 正しい対処は多分、返事をせずに公園を去ること。でも、悪気なしに挨拶しただけの子どもに逃げ出されたら、おじいさんは悲しむかもしれない。せめてなにか、もっともらしい理由を言わなければ。

「ちょっと散歩に来ただけで……。でも、もう遅いから家に帰ります」

 嘘をつくことへの罪悪感で、僕の声は小さくなった。

「そうかい」

「はい。だから、えっと、さようなら。お邪魔しました」

 そう言っておじいさんに背を向けようとしたところで、僕はふと気づく。少しくたびれた革靴のそばには五本、いや十本? とにかくすごくたくさんのたばこの吸殻が落ちていた。

 たばこを灰皿以外に捨てるのはいけないこと――いや、問題はそこではなくて――おじいさんは、あのベンチにどれほどの時間座ったままでいるのだろう。

 そろそろ薄暗く肌寒くなる頃合いなのに、帰ろうとする素振りも見せない。夕方に子どもがひとりで出歩くのが危ないのならば、こんなに年老いたおじいさんがひとりで公園にいるのも安全とは思えない。

「あの、おじいさんは……?」

 散歩ですか? そろそろ日が暮れそうですよ。どう続けようか迷って、何も言えない。年寄り扱いするなと怒られたらどうしよう、そんな気持ちもあった。

 おじいさんは怒らなかった。笑顔のままゆっくりとした口調で「待ち合わせだよ」と言った。

「待ち合わせ……」

 もしかしたら家族が用事を済ませるのをここで待っているのだろうか。でも、こんなにたくさんのたばこを吸うくらいの時間? 僕のおじいさんも、マーサやベネットさんに小言を言われながらもたばこをやめられずにいる。それでも吸うのはせいぜい一時間に一本とか。

「誰を待っているの? 家族ですか?」

 ぼんやりとした不安を感じながら僕はきく。しかし、返ってきたのは不安のかけらもない幸せそうな声だった。

「いいや、恋人だよ」

 恋人――それが何を意味するかは、僕だって知っている。

 お互いに好き同士の人を指す言葉。ベンはシルビアと「恋人」になりたいのだと言っていた。それでも僕が聞き返してしまったのは、こんなお年寄りから「恋人」という言葉が出てくるのが不思議だったからだ。だって恋人っていうのはもっと若くて、結婚するよりも前の人を指すものだとばかり思っていたから。

「ああ、私の恋人だ。彼女はバラの花が大好きだからね。ここのバラはとてもきれいだから、見せてやったら喜ぶだろうと思って」

 そう言っておじいさんは植え込みを指し示す。その「恋人」に、吸殻の小山を作るほど長い時間待たされていることなどまったく気にしていない様子で。

「でも、ずいぶん待ってるみたいだけど」

 おずおずとたずねると、おじいさんは首を左右に振る。

「いや、坊や。私はついさっき来たばかりだ。それに彼女はいつも身支度に時間がかかるんだ。髪の毛をアイロンでセットして、付けまつげをつけて、とっておきのお洒落をしてやってくるんだよ。そんなに頑張らなくたって十分可愛らしいんだけど『一番きれいな姿を見て欲しい』って言うんだ」

 ついさっき、だって? 絶対にそんなはずはないのに。

 穏やかで幸せそうな姿。なのに、どうしてそんな彼を見て、怖くて不安な気持ちになってしまうんだろう。

「もう少しすれば彼女がやってくるからね、良かったら坊やに紹介しよう」

 そう言われて僕は反射的に後ずさった。

「あ、あの……ごめんなさい。僕もう帰らなきゃ。遅くなると叱られるから」

 サーシャと喧嘩したこと。ひとりになって頭を冷やしたかったこと。全部どこかにいってしまった。僕は目の前にいるおじいさんにどうしようもない怖さを感じて、ただここから逃げ出したかった。

「そうか、気をつけて帰るんだよ」

 そう言って手を振る彼に背を向けると、僕はサーシャの待つ家に向かって走りはじめた。