僕と機械仕掛けと思い出(10)

 僕はもう、何を言えば良いのかわからない。ただ黙っておじいさんと隣り合って座っていた。

 どのくらい経っただろう、ぱっと街灯にあかりがつき、いつの間にか空がすっかり暗くなっていることに気づく。肌寒いし、さすがにサーシャも僕が帰って来ないことに気づいているはずだ。

 不安に襲われる僕とは対照的に、おじいさんは変わらず幸せそうにバラの植え込みを眺めている。

「……ねえ、おじいさん。そろそろ帰らない?」

 話しかけると、彼は不思議そうに眉をひそめる。

「帰るだって? 私はここで待ち合わせをしているんだ。それに、君の迎えもじきやって来るんだろう?」

「うん、でも暗くなってきたし。ねえ、バラを見せるのは明日にしたらどう?」

「だが、あれは明日にはきっと盛りを過ぎてしまうよ」

 しわしわの指の先には、植え込みの中でも一番大きくて美しい花が咲き誇っている。あの花を、とっておきにきれいなうちに見せてあげたい。だからどうしても今日――そう言いたいのだろう。

 でも僕は確信している。ここでいくら待ったって、おじいさんの恋人はやって来ない。

 彼を置いたまま帰るか、それとも一緒に留まるか、しばらく迷う。昨日はいつ、どうやってここから帰ったの? そうきいてみようか。いや、昨日僕と会ったことすら覚えていないのに、まともな返事なんて期待できない。だから別の作戦を考える。

「ねえ、おじいさん。もしかしたらおじいさんの恋人、暗くて寒くなったからお家から出られないのかもしれないよ。だからさ……あの花を持っていってあげるんじゃ駄目かな。その人のお家はどこ?」

 公園の花を折るなんて本当はいけないことだ。でもここは人気のない場所だから、きっと誰も気づかない。もし見つかったとしても、一輪くらいなら許してもらえるに違いない。

 僕の質問に、おじいさんはゆっくりと右手を上げる。指先が示すのは僕とサーシャが暮らす家と同じ方向だった。だったらちょうどいい。

「一緒に行こう。ね、そうしよう」

 腕にしがみつくようにして僕が訴えると、周囲の暗さに心配な気持ちが芽生えたのか、しばらく迷ってからおじいさんは首を弱々しく縦に振った。

 彼の気が変わらないうちに出発したくて、僕は植え込みまで走っていくと、棘で怪我をしないようハンカチで包んでから、一番大きくて美しい花を枝ごと素早く手折った。

 

 宝物のようにバラの枝を握りしめたおじいさんの手を取って歩き出したときには、あと少しで重荷を下ろすことができるとほっとした気持ちになった。けれど、その期待はすぐに裏切られる。

「僕の家はここを左に曲がってしばらく行ったところなんだけど、おじいさんの行き先は、どっち?」

 交差点に差しかかったところで行き先を聞くと、おじいさんの瞳に突然うろたえた色が浮かんだ。

「どっち……?」

「その、恋人の家。いや、おじいさんの家でも、どっちでもいいんだけど。まっすぐ? それともここで曲がるの?」

 僕の言葉につられたように右を見て、左を見て、視線は足下に落ちる。

「……さあ、どっちだっただろうか」

 バラを持った手も、自信なさげに体の横に垂れた。

「え、あの」

 計算外の反応に、僕はうろたえた。

 おじいさんを家に帰しさえすればいいと思っていたのに、肝心の家がわからないなんて。どうしよう。心臓の動きが激しくなる。

 やっぱり公園に行かなきゃよかった。話しかけなきゃよかった。一緒に帰ろうなんて、言わなきゃよかった。でも、もう遅い。不安そうに立ちすくむおじいさんと、泣き出したい気持ちの僕。通りすがりの大人に助けを求めようか。でも僕はこのおじいさんのことを何も知らないし、今の状況をどう説明したらいいのかわからない。

 そのとき、後ろから僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「アキ!」

 はっと振り向くと、サーシャが駆け足でこちらに向かっている。

 こんな時間まで電話もせず家にも帰らなければ、サーシャが僕を探し回っているのは当然のことだった。

「何をしているんですか。連絡はないし、ベンの家に電話したらひとりで帰ったって言うから驚いて――」

 目がつり上がって、口調も鋭い。これは最高潮に怒っているときのサーシャだ。でも彼は、僕の背後にいるおじいさんに気づくと表情を緩めた。

「アキ、その人は……?」

「サーシャ!」

 きつく叱られて、夕食抜きを言い渡されたっておかしくないくらいなのに。普段ならこんなに怒っているサーシャの顔なんて全然見たくないのに――今は、そのすべてが僕をほっとさせる。すぐさま腰に抱きついて、わんわん泣き出していくらいの気分だった。

 僕の様子を奇妙だと思ったのか、サーシャの表情から怒りが消えて、代わりに浮かぶのは戸惑い。だからさっとその腕を引いて、耳に口を近づける。

「サーシャ、どうしよう。公園で会ったおじいさん、帰り道がわからないんだって」

「公園で?」

 近い距離からこぼれるため息が僕の髪を揺らす。くすぐったさに目を細めると、両頬を冷たい手のひらで包み込んでサーシャは言った。

「なぜあなたが嘘をついてひとりで公園に行ったのか、申し開きは後でゆっくり聞くことにしましょう」

「……はい」

 体裁の悪さに視線をそらす僕の頭を一瞬だけ大きな手が撫でて、去る。そして立ち上がったサーシャはおじいさんに向かって礼儀正しく口を開いた。

「こんばんは、どうやらお困りの様子ですね。何かお手伝いできることはありませんか?」