サーシャはおじいさんといくつかの会話を交わしてから、僕にささやいた。
「帰り道がわからなくなってしまったみたいですね。住所も電話番号も思い出せないようなので、とりあえず警察に連れていきましょうか」
「警察?」
「ええ、もしかしたら家族から捜索願が出ているかもしれません。そうでなくとも、警察ならばあの人の家を探す手伝いをしてくれるでしょう」
そして、知らないおじいさん、サーシャ、僕の三人は一緒に歩きはじめた。サーシャに会ってほっとしたせいかおなかが空いてきたけれど、警察署は学校よりも少し先にある。夕ご飯にありつくまでは、まだしばらくかかりそうだった。
幸運なことに、数ブロック進んだところで巡回中のパトロールカーを見つけた。サーシャが手をあげると車はゆっくりと速度を落とし、二人組の警官が出てきた。
事情を話すと、警官のひとりが、腰をかがめておじいさんに話しかける。口調は優しく丁寧だ。
「こんばんは、道に迷われたようですね。お名前をお聞かせいただけますか?」
「ブランドン・フィニー」
「住所と、電話番号はわかりますか?」
「ええと、それが、なぜだか急に頭が混乱してしまって……」
自信なさげに視線を落とすおじいさんに「ちょっと失礼」と声をかけると、警察官は手を伸ばしてツイードの上着のボタンを外す。そして、裏地を確認してからにっこりと微笑んだ。
「心配はありません。すぐにご家族と連絡を取りますからね」
おじいさんは促されるままにパトロールカーに乗り込む。かっこいいパトカーに乗せてもらえるのはちょっとだけうらやましい。
「上着に連絡先が縫いつけてありました。連絡をとって、あとはこちらで送り届けましょう」
もうひとりの警官の説明を聞いて、「ありがとうございます、ではよろしくお願いします」とサーシャはお礼を言った。
パトカーの中のおじいさんは、不安そうに背中を丸めている。窓越しに小さく手を振ってみても、気づく様子はない。それでも、膝の上に置いた手には、宝物のようにバラの花を握ったままでいた。
「おじいさん、大丈夫かな」
バタンと音がしてドアが閉まり、パトカーが発進するのを僕たちはただ見送った。
「大丈夫ですよ。わざわざ連絡先が縫いつけてあるということは、きっと……今までにも同じようなことがあったんでしょう」
そう言ってサーシャは手を伸ばし、僕の手に触れる。最近は恥ずかしくて、外で手をつなぐことはなくなった。でも今はなんだかサーシャとくっついていたい気がする。以前ほど大きくは感じなくなった冷たい手のひらを握ろうとした僕は――。
「アキ! やっぱりアキじゃない!」
聞き覚えのある高い声に、びっくりして握りかけた手を離す。
振り返ると、見覚えのある人影。近づくと、街灯に照らされて小さな顔が浮かび上がる。
「シルビア……」
それは、シルビアとお母さんだった。髪の毛をひとつに結って白いタイツを履いたシルビアは「バレエのレッスンの帰りなの」と言ってから、僕とサーシャを交互に、不思議そうな顔で見た。
「どうしたの? パトカーの人とお話しなんて」
「えっと、公園で会ったおじいさんが……帰り道がわからないっていうから、サーシャと一緒に警察に連れて行こうとしてたんだ。でも、途中でお巡りさんに会ったから」
たどたどしい説明に、シルビアは子役俳優のように大げさな表情で驚いて見せた。
「へえ。知らないおじいさんを助けるなんて、アキって優しいのね!」
そういえば僕は今日の午後、二時間ほどもかけてじっくりと、シルビアがいかに可愛くて素敵だかを聞かされたんだった。でも、じゃあまた明日、と手を振るシルビアは、僕にとっては何の変哲もない、ただの女の子にしか見えなかった。
「なんだか疲れちゃった」
サーシャと手をつなぐタイミングを逃してしまったせいか、右手がやけに手持ち無沙汰に思える。紛らわすように手を何度か握ったり開いたりしながら僕は大きく息を吐いた。
けれどサーシャから投げかけられたのは、ねぎらいではなく厳しい言葉だ。
「疲れる前に、ちゃんと経緯を聞かせてください。いくら困っているお年寄りを助けたからって、嘘をついたことは帳消しにはなりませんよ」
――やっぱり、サーシャは忘れていなかった。
おじいさんみたいに自分の家を忘れてしまうのは困るけれど、かといってサーシャみたいになんでもきっちり覚えているのも厄介だ。
「……昨日、サーシャと喧嘩して外に出たときに、ベンの家の近くの公園であのおじいさんに会ったんだよ。で、今日もまた同じ場所にいたから、気になっちゃって」
もう、隠し立てすることもない。僕は昨日と今日の出来事すべてをサーシャに話した。
おじいさんが恋人と待ち合わせていると言っていたこと。昨日は放って帰ってしまったから、その後どうしたのか気になっていたこと。公園に行って声をかけたら、前の日のことをすっかり忘れたみたいに同じ話を繰り返すから怖くなってしまったこと。
「あのおじいさん、病気なのかな」
「病気の一種と言えなくもありませんが、歳をとった人間には珍しくないことですよ」
「でも、僕のおじいさんはあんなじゃないよ」
「サー・ラザフォードはまだまだお元気ですし……それに、ああいう症状には個人差がありますから」
あなたとベンだって、同じ年齢で、同じ人間の男の子だけどまったく違っているでしょう? そう問いかけられて、僕はうなずいた。
「……病気なら、お医者さんに治してもらえるの?」
「どうでしょう。私たちのような機械ならばバックアップがあるんですけど、人間はもっとずっと複雑ですから」
そう言うサーシャの横顔はいつもと同じ、白くてちょっと冷たそうで、でも――僕には人間と変わらないように見える。怒ったり笑ったり、心配したりほっとしたり、むしろ僕の周りにいる人間の大人よりもずっと複雑なくらいに。
「さっきのご老人、バラの花を持っていましたね」
ほら、こんなところも並の人間よりずっと目ざとい。
行ってはいけないと言われている公園に、嘘をついてまでひとりで行った。それだけでもじゅうぶん気まずいのに、結局こうして僕の悪事はすべてばれてしまうのだ。
「おじいさん、あの花を恋人に見せるために待ち合わせしてるって言ってた。楽しみにしてずっと待ってたんだ。だから……」
「あなたが折ったんですか? 公共のものを」
「ごめんなさい」
サーシャは家に帰り着くまでずっと渋い顔をして、僕にどのような罰を与えるかを考えているみたいだった。夕食抜き、書き取り五ページ、いろいろな「お仕置き」が頭に浮かんで憂鬱だったけど、階段を上がってドアを開けるとスープのいい匂いがして、場違いにも僕のおなかはぐうっと音を立てる。
思わずといった様子で微笑んで、サーシャは言った。
「今日は特別に許してあげます。でも二度目はありませんからね」