僕と機械仕掛けと思い出(12)

「見知らぬお年寄りを助けようとしたのは良いことです。ただし、どんな良いこともやり方を間違えては台なしですよ。あなたは優しくて正義感も強い。しかし、感情に任せて衝動的な行動をとる癖がこの年齢になっても治らないのは困りものです」

 許す、と言っておきながらサーシャは夕食を終えてからひとしきり説教をした。嘘つき、と思いながらも自分が悪いとわかっているから、できるだけ神妙な顔で話を聞こうと努力した。

「猫を助けようと壁によじ登ったときから、まったく成長がありませんね」

「そんな小さい頃の話を持ち出すなんて、ずるいよ」

 さすがに五歳だか六歳だかの頃の失敗を蒸し返すのは卑怯だ。たまらず僕は言い返す。

 そう、あれはサーシャと暮らしはじめた最初の頃。雨樋を伝って壁を登った僕は、ふと自分のいる場所の高さに気づいて恐怖で動けなくなった。とうとう手を離して、でも地上で待ち構えていたサーシャがしっかり抱きとめてくれたおかげで無傷ですんだ。

 はっきり言って小さな頃のことはよく覚えていない。悲しいことがたくさんあったから忘れたいのかもしれないし、毎日あまりにたくさんの新しいことが起こるから、パンクしないよう僕の頭は自動的に古い記憶を追い出しているのかもしれない。

 でも――お母さんがいなくなったときにすごく悲しかった、その気持ちすらぼんやりとした思い出になっているにもかかわらず、僕の代わりにサーシャが腕を怪我した日のことはまったく色あせない。

 ぱっくりと割れた腕は痛ましいのに、まったく血が出ていないのを不思議だと思ったこと。ソファで横になったサーシャの体が熱くなって、このままお母さんみたいに死んでしまったらどうしようと不安でたまらなかったこと。あの日だけは、僕はサーシャにくっついたままソファで眠った。すぐそばで見張っていないと、彼がいなくなってしまいそうな気がして――。

 記憶をたぐるだけであのときの恐怖が生々しくよみがえって、僕の胸はひやりとする。

「わんわん泣いて、少しは学んだのかと思いましたが同じようなことを繰り返してばかり。自転車だって、私に黙って練習して……」

 白いシャツに覆われたサーシャの腕に目をやる。袖を少しめくれば、あのときの傷跡を見ることができる。僕への戒めにと傷の修理を拒んだサーシャは、その後何度か法定点検で徹底的なメンテナンスを受けたときも腕だけはそのままにして帰ってきた。

「反省してるよ。大体サーシャだっていちいち嫌味ったらしいんだよ。その腕も、いつだって直せるくせにさ」

 そう言ってマグカップに残っていた紅茶を飲み干すと、僕は椅子から飛び降りる。

「アキ、話は終わってません」

「終わってるよ。これ以上聞いたってサーシャ、同じこと繰り返すだけじゃん。宿題やらなきゃいけないから、もう部屋に行く」

「まったく……」

 ため息を背中で聞きながらふと思う。嫌味ったらしいなんて言ってしまったけれど、もしサーシャがあの傷を消してしまったら――僕はきっと寂しいと感じるんだろう。

 

 次の日、学校に行くなりベンが駆け寄ってきた。

「おい、アキ。昨日のやっぱり嘘だったんだな。あの後でサーシャから電話があったよ。ひとりで帰っていいなんて言ってないって」

「うん、まあ……」

「サーシャ怒ったんじゃない?」

「いや、そうでもないよ」

 そっけない返事をしてしまうのは、最近のベンが何かと僕を「子どもっぽい」扱いをしてくるからだ。悪気はないのかもしれないけれど、サーシャの過保護をからかわれているみたいで恥ずかしい。

「でも、なんでわざわざ嘘ついてまでひとりで帰ったんだ?」

 思い出すのは帰り道がわからなくなったおじいさんの不安そうな顔。雑談や面白半分に話すのは気がとがめる。

「別に、僕だってひとりになりたいことくらいあるんだよ」

「へえ、アキもとうとう〈サーシャ離れ〉か」

「やめろよ、そういう言い方!」

 半分はじゃれあい、半分は本気のいらだちで、僕はぐいとベンの体を引き剥がす。そのときふと教室の隅で話をしている女の子の一団が目に入った。シルビアと、仲の良い数人。目が合う前に、彼女たちの方からさっと視線をそらしてくすくす笑う。僕たちのことを笑っているんだろうか。なんだかすごく、変な感じだった。

 女の子たちの奇妙な態度の理由を知ったのはその日のお昼休みのことだった。トイレの帰りに廊下でクラスメートの女の子に声をかけられた。朝、こちらを見ていた中のひとりだ。

「ねえ、アキヒコくん、道に迷ったおじいさんを助けてあげたんだって?」

「えっ!?」

 なんでこの子が知っているんだろう。あのことを知っているのは僕とサーシャだけ……いや、違う。おじいさんをパトカーに預けた直後に、バレエのレッスンから帰る途中のシルビアと会った。彼女が親しい面々に話したに違いない。

「助けたわけじゃないよ。警察の人がいるとこまで連れて行っただけで」

 実際、僕は何もできなかった。無責任に声をかけて、帰り道がわからないと言われて途方にくれただけ。おじいさんを警察に連れて行くと決めたのも、パトカーに止まるよう合図をしたのもサーシャだ。

「そういうの、助けたっていうんじゃん。シルビアが、アキヒコくんはすごく優しいんだって感動してたよ」

「は?」

 たった一瞬、一場面を見ただけなのに優しいと決めつけるのも「感動」なんて言葉を使うのもおおげさだ。でも悪気なく褒めてくれている言葉を否定するのも面倒で――だって女の子はちょっとしたことで傷ついて、泣いたり怒ったりするものだから――僕は何も言わなかった。

 教室に戻った僕は、ベンが不機嫌そうな顔でこちらを見ていることに気づいた。