「見知らぬお年寄りを心配して、助けようとしたこと自体はいいことです。ただ、どんないいこともやり方を間違えては台なしですよ。あなたは優しいし正義感も強い。ただ、感情に任せて衝動的な行動をとる癖がこの年齢になっても治らないのは困りものです」
許す、と言っておきながらサーシャは夕食のあとで、とうとうと説教を聞かせた。嘘つき、と思いながらも自分が悪いことをしたと思っているから、できるだけ神妙な顔で話を聞くよう努力した。
「猫を助けようとして壁によじ登ったときから、全然成長がありませんね」
「そんな小さい頃の話を持ち出すなんて、ずるいよ」
さすがに五歳だか六歳だかの頃の失敗について蒸し返すのは卑怯だ。たまらず僕は言い返す。
そう、あれはサーシャと暮らしはじめた最初の頃。雨樋を伝って壁を登った僕は、ふと自分のいる場所の高さに気づいて恐怖に動けなくなった。思わず手を離して、でも地上で待ち構えていたサーシャがしっかり抱きとめてくれたのだ。
はっきり言って小さな頃のことはよく覚えていない。悲しいことがたくさんあったから忘れたいのかもしれないし、毎日あまりにたくさんの新しいことが起こるから、パンクしないように僕の頭は古い記憶を追い出しているのかもしれない。
でも――お母さんがいなくなったときにすごく悲しかった、その気持ちすらいまではぼんやりとした思い出になっているのに、僕を受け止めたサーシャが腕を怪我した、あの日のことはまったく色あせない。
ぱっくりと割れた前腕部の皮膚は痛ましいのに、まったく血が出ていないのを不思議だと思ったこと。ソファで横になったサーシャの体がひどく暑くなって、このままお母さんみたいに死んでしまったらどうしようと不安でたまらなかったこと。その日だけは、僕はサーシャの隣で寄り添って眠った。そばで見張っていないと、彼がいなくなってしまいそうな気がして。
記憶をたぐるだけであのときの怖さを思い出して僕の胸はひやりとする。
「わんわん泣いて、少しは学んだのかと思いましたが同じようなことを繰り返してばかり。自転車だって、私に黙って練習して……」
白いシャツに覆われたサーシャの腕に目をやる。袖を少しめくれば、あのときの傷が残っている。僕に反省の心を忘れさせないようにと傷の修理を拒んだサーシャは、その後何度か法定点検で徹底的なメンテナンスを受けたときも腕だけはそのままにして帰ってきた。
「反省してるよ。大体サーシャだっていちいち嫌味ったらしいんだよ。いつだって直せるくせにさ」
そう言ってマグカップに残っていた紅茶を飲み干すと、僕は椅子から飛び降りる。
「アキヒコ、話は終わってません」
「終わってるよ。これ以上聞いたってサーシャ、同じこと繰り返すだけじゃん。宿題やらなきゃいけないから、もう部屋に行く」
「まったく……」
ため息を背中で聞きながらふと思う。嫌味ったらしいなんて言ってしまったけれど、もしサーシャがあの傷を消してしまったら――僕はきっと寂しいと感じるんだろう。
次の日、学校に行くなりベンが駆け寄ってきた。
「おい、アキ。昨日のやっぱり嘘だったんだな。あの後サーシャから電話があったんだ。ひとりで帰っていいなんて言われてなかったんだろう」
「うん、まあ」
「サーシャ怒ったんじゃない?」
「いや、そうでもないよ」
そっけない返事をしてしまうのは、最近のベンが何かと「子どもっぽい」扱いをしてくるからだ。悪気はないのかもしれないけれど、サーシャに過保護にされていることをからかわれているみたいで、ちょっと恥ずかしい。
「でも、なんでわざわざ嘘ついてまでひとりで帰ったんだよ」
聞かれて、思い出すのは帰り道がわからなくなったおじいさんの不安そうな顔。雑談や面白半分に友達に話すのは、なんだか気がとがめる。
「別に、僕だってひとりになりたいことくらいあるんだよ」
「へえ、アキもとうとう〈サーシャ離れ〉か」
「やめろよ、そういう言い方!」
半分はじゃれあい、半分は本気のいらだちで、僕はぐいとベンの体を引き剥がす。そのときふと教室の隅で話をしている女の子の一団が目に入る。シルビアと、仲の良い数人。目が合いそうになって、彼女たちの方からさっとそらしてくすくす笑う。
僕たちのことを笑っているんだろうか。なんだかすごく、変な感じだった。
女の子たちの奇妙な態度の理由を知ったのはその日のお昼休みのことだった。トイレに行った帰りに廊下でクラスメートの女の子に声をかけられた。朝、こちらを見ていた中のひとりだ。
「ねえ、アキヒコくん、道に迷ったおじいさんを助けてあげたんだって?」
「えっ!?」
なんでこの子が知っているんだろう。あのことを知っているのは僕とサーシャだけ……いや、違う。そういえばおじいさんをパトカーに預けた直後に、バレエのレッスンから帰る途中のシルビアと会ったんだった。彼女が親しい面々に話したに違いない。
「助けたわけじゃないよ。警察の人がいるとこまで連れて行っただけで」
実際は僕は何もできなかった。無責任に声をかけて、帰り道がわからないと言われて途方にくれただけ。おじいさんを警察に連れて行くと決めたのも、パトカーに止まるよう合図をしたのもサーシャだ。
「そういうの、助けたっていうんじゃん。シルビアが、アキヒコくんはすごく優しいんだって感動してたよ」
「は?」
たった一瞬、一場面を見ただけなのに優しいと決めつけるのも「感動」なんて言葉を使うのもおおげさだ。でも悪気なく褒めてくれている言葉を否定するのも面倒で――だって女の子はちょっとしたことで傷ついて、泣いたり怒ったりするものだから――僕は何も言わなかった。
教室に戻った僕は、ベンが不機嫌そうな顔でこちらを見ていることに気づいた。