僕と機械仕掛けと思い出(14)

 乱暴に手を振り払っても、サーシャは怒らなかった。つまり彼は、僕が悲しいのを我慢していることに気づいている。強がろうとしても、結局何もかもばれてしまっている。恥ずかしくてちょっと情けないけど、同時に僕はほっとした気持ちになった。

 家に帰るとサーシャはすぐにキッチンに立ち、コンロでお湯を沸かしはじめる。

 僕はおやつなんてまったく欲しくない気分だった。むしろ、家に帰ったらすぐに部屋にこもって、布団をかぶってしまいたいと思っていたくらいだ。なのに、いざリビングに脚を踏み入れると立ち去りがたくて、通学鞄をソファに放り出してそのままダイニングチェアに腰掛けた。

 テーブルの上で両腕を組んで、そこに顔を乗せて、お茶の準備をするサーシャの後ろ姿を眺める。白いシャツにくるまれた細身の背中はいつも、まるで支柱が入っているかのようにまっすぐに伸びている。

 そういえば小さい頃はいつもここで料理や片付けをするサーシャを見ていたっけ。だって、一瞬でも目を離すとお母さんみたいにいなくなってしまうんじゃないかと思っていたから。椅子に座っても床に届かない脚をぶらぶらさせては「お行儀が悪い」と叱られていた両の足裏は、いつからか床につくようになった。

 しゅんしゅんとやかんから湯気が立ち上ると、サーシャはマグカップにティーバッグを入れてお湯を注ぐ。小皿を乗せて少しのあいだ蒸らしてから、ミルクをたっぷり入れるのが彼のやり方だ。そして多分、お母さんとも同じやり方。

「ビスケットとプティングどちらがいいですか?」

 マグカップを差し出しながらサーシャが聞く。どちらも食べたくないけど、断ることすら億劫だったからプティングを選んだ。

 ひとりになりたくない。でも、ただ座っているのも手持ち無沙汰だ。ふうふうとミルクティーを吹いて気を紛らわせていると、サーシャは僕の正面に座る。話しかけられるのではないかと身構えるが、彼はテーブルの隅にあった新聞を手に取り黙って視線を落とした。

 どのくらい黙って向かい合っていただろう。スプーンでいじくり回したせいで、お皿のプティングはぐずぐずに崩れてしまった。すっかり飲みやすい温度になったミルクティーをようやく口に含むと、いつもよりずっと甘かった。

 ぬるくて甘いお茶は、僕の心を溶かす。

「……僕、あのおじいさんに声をかけなきゃ良かった」

 小さな声で告げると、サーシャは顔をうつむけたままで、ちらりと視線だけをこちらに向ける。いつもどおり黒く濡れた、きれいな目。

「どうしてそう思うんですか?」

 聞かれて、僕は少し黙る。だって入り組んだ理由を明かすと。ベンとのことをサーシャに話さなければいけなくなる。どうしよう。でも、本当は考えるまでもなく、僕はサーシャに話を聞いて欲しくてたまらなかった。

「おじいさんを送っているところを、シルビアとお母さんに見られただろう」

「ええ」

「シルビアが、学校でその話をしたんだ。アキは優しいって」

「褒められたんですね。それの何に問題が?」

 サーシャは首をかしげる。いいことをして、褒められた。それだけならば落ち込む理由などない。

 僕はまた、デザートスプーンでプティングの皿をかき回す。

「なんかさ、それで、シルビアが僕のこと好きみたいな噂になっちゃって。ベンが。ベンはシルビアのこと好きだから……」

 女の子たちは、シルビアが僕を好きなことは確かだと言っていたけど、少しあいまいに「噂」としておいた。だって僕がシルビアから直接言われたわけではないから。それに――僕はまだ心の奥底では、それが本当ではなければいいと思っていた。

 サーシャはようやく僕の言いたいことを理解したようだった。場違いにも、ふっと微笑む。

「ああ、それでベンが機嫌を損ねてしまったんですね」

「笑うなよ。僕は困ってるんだから」

 強い調子でとがめると、サーシャはますますおかしそうに声を出して笑う。めったにこんな笑い方しないくせに。

「ふふ、友達同士で恋愛問題なんて、あなたたちもそんな年齢になったんですね。ついこの間まで積み木を取り合って喧嘩してたのに」

「だから嫌だったんだ、サーシャに話すの。そう言って馬鹿にする」

 気を悪くした僕がぷいと顔を背けると、ようやくサーシャが笑いをおさめた。

「ごめんなさい、馬鹿になんてしていません。アキもベンも大きくなったんだって感慨に浸ってるだけです」

 サーシャはわざと難しい言葉でこちらを煙に巻こうとする。でも僕には「感慨」なんてわからないし、説明されたところでろくな意味じゃないに決まっている。わざとらしく大きなためいきをついた。

「こっちは散々なんだ。僕はシルビアに興味ないのに、みんな勝手なこと言うし、ベンには裏切り者扱いされるし。あーあ、勘弁して欲しいよ。好きとかそういうのって、面倒なだけだ」

 さっきほどはっきりとではないけれど、またサーシャの顔に微かな笑みが浮かんだ。

「そんなこと言ってますけど、あなたもすぐに理解して、誰かに熱を上げるようになりますよ」

「やだ。ずっとわかんなくていい」

 だって、恋人とか夫婦の好きなんてあてにならない。親が離婚したとか、新しいパパやママができたなんていう話は僕の周りだって珍しくない。死んでしまった僕のお母さんだって、結婚しないままひとりで僕を産んだ。それはつまり、僕のお父さんにあたる人をそんなには好きじゃなかったってことだ。

 恋人の「好き」なんて一生わからないままでいい。ベンみたいにわけのわからないことで舞い上がったり怒ったりしたくない。そんな気持ち、僕にはいらない。

 好きな相手なんて、家族とか、サーシャとか――。

「じゃあさ、サーシャはわかるの? 好きとかそういうの」

 ふとした思いつきで質問すると、サーシャは驚いたように目を丸くする。それからゆっくり首を左右に振った。

「いいえ、わかりません。だって、わたしは人間じゃありませんから」

「……サーシャは、そうやってすぐ逃げる」

 僕はもう十一歳だから知っている。

 サーシャがこういうふうに答えるときの半分は本当。残りの半分は、ただ答えたくないだけ。