僕と機械仕掛けと思い出(16)

 その日の帰り、交通事故のせいで大通りはひどく渋滞していた。

「まったく、これじゃ何時間かかるかわからん」

 気の短いベネットさんはちっとも動かない車の後部座席で舌打ちをして、運転手に裏道を抜けるよう指示した。

 裏道というのはつまり、住宅街の中を編み目のように走る狭くて入り組んだ道のことだ。しかも大抵は一方通行なので、近所で生活している人以外は好んで車で入ろうとはしない。とはいえ、ラザフォード家の運転手はさすがにプロで、指示されたとおり住宅街に向けてハンドルを切った。

 細い通りをゆっくりとしたスピードで車は進んでいく。余計なことを言ってベネットさんをこれ以上苛立たせたくなくて、僕は黙ってじっと窓の外を眺めていた。

 やがて周囲がよく知っている場所――ベンの家の近所にさしかかったことに気づく。仲の良い友達の家の近くを偶然通るだなんて、普段の僕ならば嬉しくなって、ベンやその家族が偶然そこらを歩いていないか探しただろう。でも、シルビアの一件ですっかり嫌われてしまった今は、ベンのことを考えるだけでずんと胸の中が重くなった。

 ベンの家を過ぎて、次は見覚えのある公園。ここにもいい印象はない。だって、あのおじいさんを助けようとしなければ、シルビアが僕を好きだなんて言い出すことも、そのせいでベンが腹を立てることもなかった。

 しかも――どうやら僕の親切心は無駄だったようだ。

 ゆっくりと流れる窓の外の景色。公園に目をやると、あの日と同じようにベンチにひとり腰掛けている小さな人影が見えた。

「どうして……」

 僕は思わずつぶやいた。

 だって、あのとき僕とサーシャは確かに公園のおじいさんを警察官に預けた。そして、彼がひとりでは家に帰れないことも伝えたのだ。僕があの人の家族なら、二度と迷子にならないように注意を払うだろう。それに、おじいさんが公園に通った理由であるバラの花は、すでにほとんど散っていた。

「どうされました? アキヒコさま」

 窓ガラスに顔をくっつけるようにして外を見る僕に、ベネットさんは渋い顔をした。きっとお行儀が悪いと思っているのだろう。どう答えたところで待っているのはお説教だと確信した僕は、窓から顔を離して、きちんと座り直してから「なんでもないよ」と言った。

 

「ではまた来週、同じ時間に迎えにあがりますから」

「うん」

 別れ際に次回の予定を確認されて、僕は嫌々うなずく。きっとベネットさんはまた学校の話をするだろう。おじいさんは「ゆっくり考えればいい」と言うけれど、入学の手続きや審査のことを考えると、僕に残された時間はそんなに長くなさそうだ。

 進学のことは考えたくないし、意地悪なベネットさんにも会いたくない。でも、少し前にマーサが僕に「ラザフォードさまは、この世の何よりもアキヒコさまがおいでになるのを楽しみにしているのよ」と囁いた。そのことを思い出すと、とてもではないが約束をキャンセルするとは言い出せなかった。

 ベネットさんを乗せた車が見えなくなって、僕は家に帰ろうとアパートメントの内階段を上りはじめる。でも、もやもやした気持ちがあまりに大きすぎて、途中の踊り場で足が動かなくなってしまった。

 こんな気持ちでドアを開けたら、きっとまたサーシャと喧嘩してしまう。ベンに嫌われて、ベネットさんと喧嘩して、サーシャとまで言い争いになるのはあんまりに辛い。

 僕はしばらくそこに立ち止まったままでいた。

 頭に浮かぶのは、さっきの公園のこと。バラは散ったのに、迷子のおじいさんはどうしてまたあそこに行ったのだろう。それだけではない、あの人はすごく不思議だ。

 いくら楽しみにしていたって待ち合わせの相手は全然やってこない。なのに――確かに道に迷ったことに気づいたときはちょっと不安そうだったけど――彼はとても幸せそうに見えた。

 急に公園に行きたくてたまらなくなる。あの人がうっとりと幸せそうに「恋人」の話をするのを聞いたら、僕もちょっとくらいは優しい気持ちになれるんじゃないか。だって僕の周りあるのはややこしくて幸せとはほど遠い「好き」ばかりだから。

 窓の外に目をやる。まだ日は落ちていない。もうしばらくすれば僕が帰ってこないことを不審に思ったサーシャはベネットさんに連絡をとるだろうか。アパートメントの前で車を降りた僕が家に戻っていないと知って心配するだろうか。でも、今はそんなことは小さな問題に思えた。

 小走りで公園まで行くと、おじいさんはやはりベンチに座ったままでいた。前に二度会ったときと同じように、足下にはたばこの吸い殻が積み上がっている。

 要領を得た僕は、彼から「初めて会う子ども」を見る目を向けられたって、もう驚かない。

「こんばんは」

 挨拶をすると、彼も「こんばんは、坊や」と返す。前回、前々回とほとんど同じやり取りだ。違うのはただ、バラの花びらがほとんど木の根元に落ちてしまっていることだけ。

「バラの花、散っちゃいましたね。あんなにきれいだったのに」

 おじいさんの隣に座って、僕は言った。