僕と機械仕掛けと思い出(17)

「バラの花?」

 おじいさんはバラの花のことも、すっかり記憶からなくしてしまったみたいだ。覚悟していた返事だけど、少しだけ寂しい気持ちになる。

 僕は右手を挙げて、バラの植え込みを指で示した。

「うん。そこのバラ、何日か前は満開ですごく綺麗だったんです」

 するとおじいさんは、ゆっくりと視線を動かして地面に散った赤い花びらを見つめる。

「そうか。実に残念だな」

 その声は小さいがはっきりしっかりしていて、もし彼に会うのが初めてだったとすれば、僕はなんの違和感も覚えなかったかもしれない。

 本当に不思議だ。僕だって、いろいろなことを忘れてしまう。学校に持っていかなければいけないもののこと、サーシャとのお手伝いの約束、そして小さい頃のこと。でも、このおじいさんみたいにたった数日前のことを、まるきり存在しなかったように忘れてしまうなんて。

 ずっと前にベンの家のお手伝いロボット・アニーが、メンテナンス中の事故ですべての記憶をなくしてしまったことがある。あれは、作業員のミスでメモリーが消去されてしまい、偶然にもバックアップデータも壊れてしまったのが原因だったと聞いた。

 僕はそのとき、同じような事故がサーシャに起こらないか心配でたまらなかった。でも、ロボットだけでなく、人間だってこのおじいさんみたいに、自分の家や数日前のことを忘れてしまったり、新しいことを覚えられなくなったりする。

 ――いや、でも人間の場合は多分、何もかもを忘れてしまうわけではなくて。

「おじいさんは、バラが好きなんですか?」

 僕が質問すると、ふっとおじいさんの表情が柔らかくなった。

「いいや、私じゃない。いや……どうかな。私の恋人がとてもバラの花が好きでね。実は今も彼女と待ち合わせをしているんだが、もしこの植え込みのバラが咲いていたら、きっと喜んでいただろう。本当に残念だよ」

 僕と前に会ったときのことも、バラの植え込みが満開だったことも忘れてしまった彼にとって、「バラの花が好きな恋人」のことだけは決して忘れることのない、確かなことであるらしい。

 数日前のことを忘れてしまうのに、おそらくそれより前のことだろう「恋人」のことは、こんなにはっきり話せるなんて不思議だ。それはもしかしたら、すごくすごく好きな人だから、忘れずにいられるんだろうか。

「……彼女が喜ぶから、バラの花を気にかけるようになってね。そうしているうちにいつのまにか私もバラが好きになってしまったみたいなんだ」

 うっとりとした表情で続けるおじいさんの言葉に、僕は首をかしげる。

「ふうん」

 自分が好きなものじゃなくても、「好きな人にとって好きなもの」だから、いつの間にか自分もそれを好きになってしまう。その気持ちはわかるようなわからないような気がする。

 僕はお母さんの好きなものを好きだっただろうか。でも、お母さんにとって一番好きだったものはきっと僕だったから、あまり参考にならない。僕が一番の友達だと思っているベンはシルビアのことが好きだけど、正直最近僕はシルビアのことを苦手に思っているし、サーシャが好きなものがこの世でなんなのかに至っては、まるで思い浮かばない。

 でも、僕が好きなものをサーシャに好きになって欲しいとは思う。大体それは、うまくいかないんだけど。

 僕がいくら猫が好きだと言ってもサーシャは渋い顔をして飼うことを許してくれなかったし、自転車に乗ることには今もあまり賛成してくれない。それってもしかして、サーシャは僕のことを好きじゃないってことなんだろうか。好きじゃないから、僕が寮のある学校に入るかもしれないと知っても、まるで平気な顔をしているんだろうか。

 子どもっぽいとからかわれると反論したくなるけど、やっぱり僕はみんなの言う「好き」という気持ちがまだよくはわからない。

「ねえ、おじいさん。おじいさんの恋人ってどんな人? すごく好きになるって、どういう気持ち?」

 これはきっと、友達にも、僕の本当のおじいさんにも、もちろんサーシャにも聞けないこと。このおじいさんがよく知らない人で、きっと明日には僕のこともこの会話のことも忘れてしまうから、質問することができるのだ。

 僕の問いかけはもしかしたら、おじいさんにとっても簡単ではなかったのかもしれない。膝の上に置いた手を組み替えながら少しのあいだ考えて、ゆっくりと話しはじめる。

「簡単に言葉にはできないな。でも、私にはもう、彼女と出会う前の自分がどんなだったかは思い出せないし、彼女のいない人生は考えられないよ」

「それって、ずっと一緒にいたいってこと?」

「ああ。だからもうじき、彼女に結婚を申し込むつもりなんだ」

 おじいさんの肌はかさかさで、しわがたくさんあって、背中は丸くて手には杖を持っている。なのに、恋人へのプロポーズについて、まるで内緒話のように声を潜める彼はずっと若く、きらきらして見える。僕はちょっとだけそれをうらやましいと思った。

 でも、おじいさんがもし、ずっと前の思い出の中で生きているのだとすれば「恋人」はどこにいるんだろう。しなびた左手薬指で鈍く光る指輪の片割れは、誰が持っているんだろう。

 だっておじいさんはひとりで家には帰れないくらいなのに、誰も迎えに来ない。あの警察官がちゃんと仕事をしたならば、家族はおじいさんが毎日のようにこの公園で座っていることを知っているはずだ。なのに、日が暮れようとしても迎えに来る気配はない。

 おじいさんは、思い出の中で生きているからずっと昔の「好き」を大切にしている。でも誰かをずっと好きでいることは、もしかしたら簡単じゃないのかもしれない。

 ベンはずっとシルビアを好きだろうか。結婚して、このおじいさんくらい年を取るまで一緒にいたいと思っているんだろうか。僕にもいつか、そんな風に思える相手ができるんだろうか。

 もやもやとした気持ちの僕の手に、おじいさんがそっと手のひらを重ねてくる。

「坊やは?」

「え?」

「君も、大切な人と待ち合わせをしているのかな?」

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