僕と機械仕掛けと思い出(21)

 あの日を最後に、おじいさんを公園で見かけることはなくなった。気になって何度かサーシャと行ってみたけれど、ベンチはいつも空っぽだった。

 バラの季節が終わった公園には興味をなくしてしまったのかもしれない。それとも家族の人にうんと叱られて、自由に家から出してもらえなくなったんだろうか。いろいろと理由を想像してみるけれど、その中に正しいものがあるのかどうかさえわからない。

 僕の気持ちも、相変わらず沈んでいる。何をやっても楽しくないし、とりわけ、シルビアや女の子たちの意味ありげな態度やベンの不機嫌のせいで、学校はずっと居心地が悪いままだった。

「顔色が優れませんね」と、校門の前でサーシャは言う。朝、学校へ向かう僕の足取りが日々重さを増しているのに気づいているんだろう。

「朝ご飯も進みませんでしたし、もしかして体調が良くないのでは?」

 それから冷たい手を額に当て、でも熱はないようですね、とつぶやく。僕は黙ったまま、学校に吸い込まれていく他の子どもたちを眺めていた。

「少し休息が必要なのかもしれませんね。今日は家に帰りますか?」

 顔色が悪いのは多分本当だし、朝ご飯だって半分くらいしか食べられなかった。でも熱はないし、お腹も痛くないし、僕は多分病気ではない。ただ学校に行くのが嫌で、気が重くて。その気持ちが態度に出てしまっているだけ。

 病気でもないのに欠席するのは、ずる休みみたいで気が咎めた。それに、もしクラスの子たちと顔を合わせたくないというだけの理由で今日学校を休んでしまったら、ずっと頑張ってきた気持ちがぽっきり折れてしまいそうだ。つまりそれは、もう二度と学校に戻れなくなるということ。とても怖い想像だ。

「ううん、平気」

 嫌なイメージを振り払うように首を振って、サーシャの申し出を断る。

「朝ご飯食べられなかったのは、眠かったから。でももう大丈夫。目が覚めたし、元気になった」

 言葉だけでは信じてもらえないだろうから、できるだけ上手に笑おうとした。でもサーシャはきゅっと唇を引き結んで、難しい顔で僕の目をのぞきこむ。そして、居心地の悪さに逃げ出したくなった頃に、小さなため息を吐く。

「わかりました。アキ、あなたが大丈夫と言うなら、そうなんでしょう。行ってらっしゃい。ただし約束です。途中でどうしても無理だと思ったら、休み時間だろうが授業中だろうが先生に申し出て、家に連絡してもらうんですよ。すぐに迎えに来ますから」

「……うん」

 ずるいな、と思う。いつもだったら、いくら僕が学校に行きたくないとごねたって、怠けるんじゃありませんと怖い顔をするだけなのに、こういうときだけとっておきに優しい。

 だから、いつでも逃げ出していいんだと思って僕は、ちょっとだけ楽な気持ちで校門の内側に足を踏み入れることができる。

 

 いざ教室に入ってしまえば、なんてことはない。……というわけでもないけれど、居心地の悪さにいくらか慣れてきた僕は、やり過ごし方も学びつつある。

 授業中は一番簡単。だって、机について先生の話を聞いているだけでいいから。休み時間は眠いふりをして机に突っ伏しているか、それでも視線やひそひそ話が気になるようなら、用事があるふりで他の校舎や裏庭まで散歩に出かける。できるだけシルビアやベンと関わらず、見ないようにしていれば、ちょっとだけ息苦しさから逃れることができた。

 ――なのに、今日に限って、昼休みに教室を出ようとしたところで女の子の一人につかまってしまう。

「ねえ、アキヒコくん、ちょっと話があるんだけど」

 シルビアと仲良しの女の子。体格が良くて気が強くて、年上の兄姉がいるからかすごく口が回る。クラスの女子グループでもちょっとしたリーダー格であるその子が目の前に立ち塞がると、僕は逃げられない。

「話って……僕は、ないよ」

 女の子相手にひるんでいるようだと、馬鹿にされてしまう。わかっているのに僕の声は小さくなかった。

 ふふん、といった感じで女の子は笑う。

「私にはないだろうけど、シルビアにはあるんじゃないの? 本当にうじうじして、見ててもどかしい」

「え、あのっ」

 腕をつかまれ、ぐいぐいと引っ張られ、わけがわからないまま僕は廊下のすみっこまで連れて行かれる。そこには恥ずかしそうな顔のシルビア。少し離れた場所からいつもの女の子グループがこちらを眺めてくすくす笑っているのがわかった。

「じゃああとは二人で話して。アキヒコくんは男の子なんだから、ちゃんと言うべきこと言わなきゃ!」

 知ったような顔で僕の背中を押した彼女は、シルビアに向かってぱちんとウインクしてから小走りで距離をとる。とはいえどうせ他の女の子たちと同じように、声が聞こえる距離でこちらを見張っているに違いない。

 子どもっぽくて鈍感だと言われる僕だって、ここまで追い込まれれば状況を理解する。女の子たちは当然のように、僕がシルビアのことを好きだと思いこんでいて、〈男らしく〉僕の側から好きだと打ち明けるべきだと信じている。そして、親切心で告白のチャンスを作ってやったつもりでいるのだ。すべて僕にとっては迷惑でしかないのに。

 シルビアはもじもじと恥ずかしそうに床を見つめ、蚊の鳴くような声でささやいた。

「私、よくわかんないんだけど、アキヒコくんが話があるみたいだって呼ばれて……」

 嘘つき、と喉元まで出かかった。あの子たちと〈グル〉なくせに。全部わかっていてここにいるくせに。どうして何も知らないふりをするんだろう。だんだん腹が立ってくる。

 誰もがそうだ。勝手に期待して、そのくせ自分は責任を負わない方法で、僕に思うような行動をとらせようとする。

 勝手に僕を好きになったくせに、無理矢理みたいに僕から告白させようとするシルビアたち、僕はなにも悪くないのに、勝手に裏切り者だと決めつけて怒りをぶつけてくるベン。ベネットさんも、おじいさんだって同じだ。「最後に決めるのはアキヒコだ」と言いながら、どうせ最終的には僕が、あのパンフレットの学校を選ぶと期待しているんだろう。

 何もかも、もううんざりだ。

 ずっと我慢してきたことが急に胸の奥から膨れ上がって、体中に広がって、限界を超える。そしてどうしようもない不満は――ちょうど目の前にいるシルビアに向かう。

「シルビア、あのさ……」

 僕が口を開くと、シルビアの顔は期待で明るくなった。

「なあに?」

 以前は、特別に好きというわけではなくとも、可愛い女の子だとは思っていた。でも今はシルビアの笑顔も声も口ぶりも、すべてに苛々した。

 そして僕は、言った。

「やめて欲しいんだ、こういうの。勝手に変なこと言いふらされて本当に迷惑だと思ってるし、君のことなんか全然好きじゃない」

「え……?」

 驚いたように固まる表情。バラ色だった頬が白く色を失い、唇はわなわなと震え出す。それからシルビアはゆっくりと下を向いて――廊下にぽとりと、涙の粒が落ちた。