僕と機械仕掛けと思い出(25)

 夕方になると僕は約束を守って家に電話をかけ、サーシャが迎えにやって来た。

「ご迷惑おかけしました。いつも急にお邪魔して申し訳ありません」

「いえいえ、最近あまり遊んでないみたいだからちょっと心配してたのよ。アキヒコくん、またいつでも来てね」

 もしかしたらベンのお母さんも、僕たちが仲違いしていることに気づいていたのかもしれない。普段よりずっと嬉しそうに、僕たちを見送ってくれた。

 歩き出すと僕は、堰を切ったように今日の出来事を話しはじめる。最初は心配そうだったサーシャも、シルビアとベンの変わり身の早さを聞いたところで笑いを堪えられなくなって、くすくすと笑いをもらす。

「あきれちゃうよね。あれだけ好きだ好きだって言って、簡単に手のひら返しちゃうんだから」

「そういうこともありますよ、特に若い子の場合はね。ともかく、あなたがまた笑顔で学校に行けるようになったようで、私も一安心です。……?」

 サーシャがそこで言葉を止めたのは、あの公園にさしかかったからだ。

 つられて視線を動かすと、すっかりおじいさんを見かけることがなくなったベンチに、バラ色のワンピースを着た人影が見える。

 髪は白くて、きれいに整えられていて。あれは――。

「この間のおばあさんだ!」

 あの日おじいさんを迎えに来た女性が、今日はひとりで公園に座っている。一体どういうことだろう。僕とサーシャは顔を見合わせてから、公園に向かった。

「こんにちは」

「あら、あなたたち」

 声をかけると、おばあさんは顔を上げる。前に会ったときは、勝手に家を出ていくおじいさんに困っているような、怒っているような、ぴりぴりとした雰囲気があった。でも今日はずっと優しい顔をしている。

「どうしたんですか? おひとりで。今日はご主人は一緒ではないのですか?」

 サーシャの言葉には、ためらいが混じっている。おじいさんの記憶の病気が原因で家族がぎくしゃくしていることを知っているから、良くない答えが返ってくるかもしれないと心配しているのだろう。

 おばあさんは短い間をおいてから、答える。

「あの人は……あれからすぐに施設で暮らすようになりました」

「施設って?」

 思わずきき返すのは僕。するとおばあさんは、施設というのはひとりで暮らすことが難しくなったお年寄りや、家族だけで面倒をみることが難しくなったお年寄りが集まって暮らす、寮みたいな場所なのだと丁寧に説明してくれた。しばらく前から娘さんたちに勧められていたものの、おばあさんの踏ん切りがつかず、警察沙汰をきっかけに心を決めたらしい。

 寮みたい、という言葉に思わず反応してしまうのは、僕がそれを嫌な場所だと思っているからだ。

「そこは、おじいさんにとっていいところなの?」

 僕は学校の寮なんかに入らず、ずっとサーシャといたい。だから、おじいさんだって本当はずっとおばあさんといたいんじゃないかと思ったのだ。

 でも、正解はわからない。家族が家族であることがわからなくなってしまったら、一緒に暮らしたいとも思わなくなるかもしれないからだ。現に、おじいさんは家にいるのが嫌で出歩いて、迷子になっては家族を困らせていた。

 おばあさんは言う。

「私のことを忘れてしまったあの人と家にいると、喧嘩ばかりだったから。こっちは彼を思ってあれこれ注意するんだけど、向こうからすれば赤の他人が生活に口を出してくるようなものじゃない。娘たちからも、お互いにとって良くないって言われたわ」

 だからおじいさんは施設に行った。おばあさんはひとり暮らしになったけれど、毎日夕方に娘や孫が来るから寂しくはない。数日おきにバスを乗り継いで施設に面会にも出かける。

「でもね、家事も半分、あの人が勝手に出かけるんじゃないかって見張る必要もない。ほっとした反面一日がとても長く感じるの。だから、あの人が眺めていた景色を、わたしも見てみようかなって」

 枝と葉ばかりのバラの植え込みを見つめておばあさんは微笑む。それは本当に穏やかで、優しい顔だった。

 きっとおばあさんは今もすっと、おじいさんのことを大好きでいるんだろう。だからこそ、おじいさんが思い出ばかり見つめていることが寂しくて、一緒にいることが辛かったのかもしれない。

「おじいさんに忘れられて、寂しかった?」

「ええ、寂しかったわ」

 おばあさんは首を縦に振った。それから僕の頭を撫でて、「でもね」と続ける。

「施設のケアのおかげで彼の容態が落ち着いたのか、お互い余裕ができたのか、もしかしたら病状がさらに進んでしまったせいなのかも。理由はわからないけど、あの人あれから勝手に出歩くこともなくなったし、〈恋人〉の話もしなくなったのよ」

「そんな」

「思い出の中の〈恋人〉について話さない代わりに、わたしが面会に行くたびに、はにかんで言うの」

 ――はじめまして、これはこれは、なんて美しい方なんだ。あなたみたいに素敵な女性には会ったことがない。よろしければお茶でも一緒にいかがですか?

 僕にはショックだった。長い時間を過ごした奥さんや子どものことを忘れ、あんなに大切にしていた〈恋人〉の思い出さえもなくしていくだなんて。大切なものをひとつずつ手放して、おじいさんには何が残るんだろう。

 でも、おばあさんは笑う。

「そんな悲しい顔しないで。こっちは悪い気分じゃないのよ。だって、いつだって出会ったときみたいに口説かれるんだもの」

 いくつになっても、何度出会っても彼にとって私が〈美しい人〉でいられるなんて、夢みたいじゃない。そう言うおばあさんの目の端にはきらりと光るものが浮かんでいる。

 泣いているのに幸せそう。そんな場面をずっと前に見たことがある気がする。でも僕にはまだその気持ちがわからなくて、不思議に思う。それと同時に、最近がっかりしてばかりだった「愛」とか「永遠に続く大切なもの」について、ちょっとくらいは信じてみたくなった。

 

「あなたには少し難しい話でしたね」

 もう少しここで風景を眺めているわ、というおばあさんと別れて僕とサーシャは再び歩き出す。

「難しかったけど、ちょっとだけわかった気がする。何よりおじいさんが迷子にならなくなったことや、おばあさんと仲良くなったのはすごくいいことだしさ」

 もっと大人っぽく、ちゃんと理解したふうに返したかったのに、やっぱり上手くはいかない。そんな僕が面白かったのか、サーシャの表情も柔らかくなった。

「それはともかく、やっぱりあのお二人はこの公園で待ち合わせをしていたのかもしれませんね。大切な恋人が迎えに来てくれたから、あのご老人はもう、公園で待ち合わせをする必要はなくなったんですよ」

「かもね」

 おじいさんはもう不安であちこち出歩くかなくたって大丈夫。施設で待っていれば、世界一美しくて素敵な人が会いに来てくれることを、記憶よりもっと深いどこかで理解しているのかもしれない。まるで僕が、本当につらいときはいつだってサーシャが助けに来てくれると信じているみたいに。

 そんなことを考えているうちに急にサーシャと手をつなぎたくなって大きな手のひらに指先で触れる。そのくせサーシャが僕の手を迎えようとした途端に恥ずかしさがこみあげる。

 慌てて手を引っ込めて、別の話題を探した。

「そ、そういえば、アイスクリーム・サンデー食べに行きたい」

 サーシャはぎょっとして僕を見る。

「おやつはベンの家でいただいたんでしょう?」

 そう、すごく美味しいプティングをおかわりまでした。でも恥ずかしさを隠したい一心で僕は言いつのる。

「でも約束したじゃないか、僕がシルビアに謝ったら、お店に連れて行ってくれるって! 食べたい、今すぐだよ!」

 今日とは言っていないとか、夕食が入らなくなるとか、サーシャは難色を示したけれど、あまりに僕がしつこいので珍しく白旗をあげた。

 今日だけは特別ですよ、と僕たちはアパートメントを通り過ぎて大通りへ向かう。今日の夕ご飯は、大きなアイスクリーム・サンデー。最低の日々の後にようやく訪れたのは多分、最高の一日だった。