その日、僕は迎えの車に乗っておじいさんの家へ行き、週末に税理士が持ってきた山ほどの書類を整理するのを手伝った。
ひと息ついたところでリビングに降りて、マーサが準備してくれたお茶を飲んでいるとベネットさんが現れた。いくつかの書類をおじいさんに渡して、僕にはわからないむずかしい会話を交わしてから、大きなため息をついてどっかりとソファに座り込む。
「ふう、疲れた。まったくここのところ慌ただしくて、のんびりお茶を飲む時間すらなかった」
僕の行儀にはいちいちうるさいくせに、ポットからティーカップの縁ぎりぎりまで紅茶を注ぎ、一気に飲み干す姿はどう見ても美しいマナーとは思えない。
普段説教されてばかりだから、やり返す絶好のチャンス……そう思って口を開こうとした瞬間、ベネットさんが先制攻撃を仕掛けてきた。
「アキヒコ様、試験の結果はいかがでしたか?」
こちらはまだ何も言っていないのにもかかわらず、ベネットさんの言葉には棘がある。どうやらこの弁護士、今日はご機嫌ななめのようだ。
「終わったばかりだ。まだ戻ってくるはずないだろう」
「手応えくらいはおわかりでしょう。それとも、出来たか出来なかったかもわからないほどの準備不足だったとか?」
いくら小さな頃からの付き合いとはいえ、雇い主の孫にずいぶんな言いようだ。数年前の僕ならば顔を赤くして言い返していただろう。でも、アキヒコ・ラザフォードはもう十五歳。これがただの八つ当たりで、まともに相手するだけ馬鹿馬鹿しいと受け流すだけの分別も身につけた。
とはいえ、不機嫌の理由は気になる。
「……ベネットさん、どうかしたの?」
ささやき声でたずねると、お気に入りの椅子でくつろいでいるおじいさんもささやき声で答えた。
「ここに来る前に、トレイシーを空港に送ってきたそうだ」
トレイシーは、ベネットさんのひとり娘。
気難しくて尊大なベネットさんとはまったく似ていない、にこにこと人懐っこい笑顔をよく覚えている。僕が小さかった頃はたまに父親についてこのお屋敷にやってきて、遊び相手になってくれた。
そのトレイシーは、何年か前に大学の法学部に入学したのだと聞いている。「父さんの跡を継ぎたい、って言うんです」と、聞いてもいないのに打ち明ける顔は珍しくにやついていた。
「空港って、旅行にでも出かけるの?」
僕のさらなる質問を聞きとがめたベネットさんが、ため息混じりに口を開く。
「外国の大学院に行くんですよ。法学をもっと学びたいなら国内にもいくらだっていい大学院はあるというのに。まったく誰に似たのか、ちっとも耳を貸さない」
まるで人ごとのような口ぶりからして、奥さんに責任をなすりつけているつもりなのかもしれない。でも、もしもトレイシーがそんなにも頑固なのだとすれば、それは間違いなくベネットさんに似たからだ。僕はおじいさんと顔を見合わせて笑った。
「僕の友達にも留学生はたくさんいるよ。もっと小さい子を外国の学校に送り出している親だっているんだから、ベネットさんもくよくよしちゃだめだよ」
普段は僕に対して偉そうに「自立しなさい」「いつまでもサーシャに頼ってばかりでは先が思いやられます」と説教するくせに、いざ自分の娘が外国に行くとなれば、この有様。ダブルスタンダードに呆れはするけれど、ベネットさんのこういう人間くさい部分は、どうにも憎めない。
「まさか私がアキヒコ様に嫉妬される日が来るなんて、情けないですね。……いえ、ちょっと感傷的になっているだけですよ。すぐに慣れますから」
そう言いながらも、ベネットさんはため息を繰り返しては、腕時計を確かめていた。
真新しい腕時計は、メインの大きな文字盤の中に小さな丸い文字盤が入れ子になっている。それがあればいつだって、トレイシーの暮らす国の現在時刻がわかるらしい。
ちょっとどころか、ずいぶんセンチメンタルになっているベネットさんに構っていても辛気くさくなるばかりだ。僕は話題を変えることにした。
「そうだ、おじいさん。友達が休暇中にどうしてもここに来たいって言うんだ。もしかしたら断り切れないかもしれない」
ラザフォード邸に行きたいというヒューゴの頼み。断りはしたものの、彼は納得していない。休暇中に自宅で開く誕生日会に僕を招待するから、代わりに遊びに行かせてくれと最後までしつこかった。
あまり強硬に断り続けても、逆に隠しごとを怪しまれそうだ。最終的に僕は「おじいさんと相談してみる」と、曖昧にその場をしのいだ。そのまま忘れてくれればいいのだけど、ヒューゴの性格からしてしつこく蒸し返してきそうだ。
「私は構わないよ。泊める部屋だっていくらだってあるのだから、是非招待するといい」
おじいさんは、あっさりそう言った。万が一にも難色を示してくれたら、という僕の期待はしぼんで消える。
もしかしたら、馬鹿正直におじいさんにたずねたりせず、「おじいさんが来客を嫌うから」などと方便で乗り切れば良かったのかもしれない。でも、ただでさえ人嫌いだと噂されているおじいさんに、さらに気難しい評判を与えてしまうのも気が引けたのだ。
「ありがとう……まだどうなるかわからないけど、友達と話してみるよ」
さて、どうやってヒューゴを説得するか。もしくは一度だけでもここに招いてしまった方が手っ取り早いのか。面倒なことを思い出して、今度は僕がため息をつく番だった。
すると、トレイシーのことで頭がいっぱいだったはずのベネットさんが顔をあげる。
「ところでアキヒコ様。家に呼ぶのはお友達だけですか?」
「うん。ヒューゴと、もしかしたらロドリゴも。それがどうかした?」
「いえいえ、十五歳にもなって休暇にデートの予定のひとつくらいはないのかなと思っただけですよ」
デートの予定? 考えてもみなかったことを言われて、僕はあっけにとられてしまった。
僕の毎日は忙しい。毎日片道一時間をかけて学校に行き、おじいさんの手伝いに、宿題や試験勉強。学校、ここ、家の三ヶ所を移動するだけで精一杯なのに、一体どうやってデートの相手ができるというのだろう。
「ってことは、ベネットさんは十五歳の頃、休暇のたびにデートで忙しかったわけだ」
あまりにナンセンスな指摘に、さすがに僕の返事もとげとげしいものになる。
「私はアキヒコ様よりもずっと勉強一筋でしたから」
ベネットさんは苦し紛れの返事をしてから、最後に「立場が違いますよ」と付け加えた。「立場が」というのが、まるで僕を黙らせることができる魔法のフレーズだと思ってでもいるかのようだ。
学校問題が解決したと思ったら、仕事の手伝い、次はデートの相手? 僕の人生は急かされてばかりだ。
この家で会う大人たちのほとんどは、僕を「アキヒコ・ラザフォード」ではなく「未来のサー・ラザフォード」としてしか見ていない。そのことには、ずっと前から気づいている。そして彼らが内心では、更に次世代のラザフォード家のことまで考えているということも。
おじいさんには娘しか生まれなかった。その娘も喧嘩して家を出てしまい、もしも彼女が若くして死ななかったならば、僕はおじいさんと会うこともなかっただろう。つまりラザフォードの本家は断絶したということだ。
だから「ラザフォード家」にこだわる人たちは、表面上の優しい態度の裏側に、決して僕を逃すものかという強い意思を秘めている。そして彼らは、僕にいかにして跡継ぎを作らせるかまで、今から強く意識しているのだ。
おじいさんのことは出会ったときから大好きだ。おかあさんとおじいさんの間に何があったかはわからないけれど、少なくとも僕には優しい。ひとりきりになった僕を――もちろんサーシャはいたけれど――お金や法律など、子どもとロボットだけでは難しい様々なことから守ってくれていることもわかっている。でも、五歳の僕が深く理解しないままで受け入れたものは、思ったよりずっと重かったようだ。
これ以上長居すると、ベネットさんとの話が不愉快な方向に向かうばかりだと察した僕は立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ僕は帰るよ。おじいさん、また明日来るね」
生まれたときからずっと豪邸やお城で育ったロドリゴやヒューゴにとっては、それゆえ背負わなければならない重さなど、重力と同じくらいに当たり前のものなのだろうか。