部屋に戻ると僕は、机の引き出しの一番奥に隠してある封筒を取り出した。
中にあるのはストロベリーブロンドの髪の毛たったの一本。封を開けるのはずいぶん久しぶりだったけれど、大切な友だちの形見は相変わらずそこにあった。
「ビビがいてくれれば良かったのにな」
思わず呟いた。
僕にとって特別な女の子がいたとすれば、たったひとり彼女だけ。写真の一枚も残されていないから、彼女がどんな姿をしていて、どんな声で話をしていたかも実ははっきりと思い出せない。けれど、たった一本手元に残った髪の毛の色を見つめていると、跡形なく消されてしまったビビは確かにこの世界に存在していたのだと確信することができる。
ビビ。機械でできた女の子。父親の手で、死んでしまった娘とそっくりに作られたビビは、ロボットに似つかわしくないくらいわがままで、気まぐれで、普通の子だった。
サーシャの精巧さも相当なもので、ほんの少し表情に乏しい以外ほとんど人間そっくりに見えるし、実際に初めて会った人のほとんどはサーシャが機械であることには気づかない。感情豊かなビビは、僕がこれまで会った中で唯一のサーシャと同じくらい――もしかしたらサーシャに負けないくらい人間っぽいアンドロイドだったかもしれない。
問題は、既に死んでしまったとはいえビビが現実に存在する女の子とそっくりだったこと。実在する人間そっくりのロボットを作ることは法律で禁止されている。動作異常をきっかけに存在が人型機械管理局に知られたビビは連れて行かれ、処分されてしまったと聞いた。
まるで人間のような感情の乱れを見せるバグがあったのだと、ビビのお母さんは言っていた。そのバグゆえにビビの両親は彼女を〈本当の娘〉として扱いたくなり、役所に嘘の届け出をして学校にまで通わせた。成長に合わせて少しずつ改造を加え続けるなんて現実的ではない。今思えば、親子三人の生活がいつか破綻することをビビの両親はずっと前から覚悟していたような気もした。
僕は、「あの子はロボットだった」と聞かされるまでずっとビビは普通の人間の女の子だと思っていた。ロボットだったから特別に仲良くなったわけじゃない。
ビビが特別だった理由。お母さんと同じ髪の色をしていたから? それだけではないはずだ。だって初対面のビビは喧嘩腰で意地悪で、印象は最悪だった。なのにいつの間にか僕たちは仲良くなっていた。
彼女に他の誰とも違う部分があったとすれば――少なくともビビは、僕がずっとサーシャと暮らすことを否定しなかった。
「お嫁さんになってあげてもいいよ」というビビの言葉に「サーシャと仲良くしてくれるなら」と答えた僕に、はにかんだ顔で笑ってくれたのだ。
ベネットさんが望むように僕がもし将来誰かとの結婚を考えるのならば、サーシャを受け入れてくれることが最低条件だ。でも、十五歳で育児支援ロボットに頼っていることすら普通ではないと思われるのに、結婚してもサーシャが一緒だなんて、ほとんどの人は眉をひそめるだろう。もちろんそれ以前に僕が十八歳になって以降もサーシャを手元に置き続ける方法も考えなければいけない。
「試験なんかより、よっぽどの難題だよ」
大きなため息をつくとビビの髪の毛がふわりと揺れた。もし飛ばしてしまえば二度と見つけられないかもしれない。僕は慌ててそれを封筒にしまい、再び大事に机の奥にしまい込んだ。
懐かしさと将来への不安が入り混じった気持ちで、どさりとベッドに倒れ込んだところでカバンから電子音が聞こえてきた。
携帯用の通話端末はしばらく前にようやく買い与えられたものだ。
徐々に普及しはじめているとはいえ子どもが持つには高価だし、サーシャは保護者の目の届かない場所でのやりとりに良い顔をしない。でも家族から離れて暮らす同級生たちは、数台しかない寮の電話の順番待ちを嫌って、ほとんど全員が携帯端末を持っている。自宅通いの僕は彼らと事情が違うけれど、皆が当たり前のように手にしているものを自分だけ持っていないというのは恥ずかしかった。
自転車より懸命にねだって、最終的には「いつでも連絡がついた方が便利だ」とおじいさんに口添えしてもらって、やっとサーシャも首を縦に振った。ただし通話明細は細かくチェックされていて、夜遅くの通話記録や長すぎる通話記録があればすぐに問い詰められる。まあ、今のところはサーシャに知られて困るようなやり取りはないのだけれど。
「……もしもし?」
誰だろう。もしかしたら昼間の態度を妙に思ったベン? もしくはおじいさんかベネットさんから訪問予定の確認? 通話ボタンを押して聞こえてきた声はどの予想とも違っていた。
「やあ、アキヒコ・ラザフォード。休暇はどうだ? もう既に退屈して、愉快な級友が恋しくなっている頃じゃないか?」
もったいぶった調子をつけて、しかもフルネームで呼びかけてくる。ヒューゴの声色がおかしくて、僕は思わず吹き出した。
「まだ休みは始まったばかりだろう。それに電話をかけてくるなんて、級友が恋しくなっているのはそっちの方だと思うけどね」
ヒューゴはまずは北部の家に戻り、乗馬やゴルフを満喫。それから南にある外国の小島へ旅行に出かける予定なのだと言っていた。聞いている限りはとても学校生活を懐かしがる余裕はなさそうだったのに、一体なんの用件だろう。首を傾げる僕に、彼は当たり前のように言う。
「で、いつになった」
「……は?」
「は、じゃないだろう。しらばっくれるなよ、アキの家に行く話だよ」
――いや、そういう話ではなかったはずだ。
僕の家、もちろんここではなくおじいさんの住むラザフォード邸に招いて欲しいとしつこく言われていたのは確かだ。断りきれず「おじいさんに聞いてみる」と答えたけれど、話はそこで終わっていた。このまま休暇の間にヒューゴの興味が失われることを期待していたのに、どうやら彼は違う認識でいたみたいだ。
「えっと待って、来ていいなんて言ってない。それにヒューゴは乗馬やゴルフで忙しいんだろう?」
「それが、最近北部は天気が悪い。今日だって遠乗りの予定だったのに大雨で、結局家の中で一日中チェス三昧だ。暇つぶしの方法を考えていて、そういえばアキの家に行く約束をしていたと思い出した」
確かに北に行けば行くほど悪天候の日が多いとは聞くけれど、だからといって暇つぶしに使われてはたまらない。
「だったらビリヤードでもダーツでも、家の中でできる遊びはいくらだってあるじゃないか。僕は来ていいなんて言ってない」
語気強く言い返すと、珍しくヒューゴは黙りこんだ。もしかしたらこちらの言い分を理解してくれているのかもしれない、と期待してしまうが、数秒の後に裏切られた。
「……嫌にむきになって断るな。もしかして何か訳ありなんじゃないか」
「訳あり?」
「昨日遊びに来た従兄弟に、クラスにラザフォード家の後継がいると話したんだ。そうしたら、妙なことを言われた。あくまで社交界の片隅で囁かれているただの噂に過ぎないんだけど――」
ヒューゴが続けて口にしたのは、僕にとっては信じがたい話だった。
ラザフォード邸には、数代前の当主に強引に関係を結ばれ子を孕んだ結果、口封じのため殺された女使用人の霊が取り憑いている。洗濯室の壁には赤黒い女の手形が、塗りつぶしても塗りつぶしても浮き上がってくる……。まるで怪奇映画みたいなおどろおどろしいストーリーに、怯えるより嫌悪が勝った。
「やめろよ、ただの言いがかりだ。そんな話聞いたことない」
数代も前とはいえ、自分の先祖の悪評が出回っていると聞いて面白いはずがない。僕がむきになると、ヒューゴも負けじと言い返す。
「家族や先祖の悪評を子どもに隠すなんて、ありふれた話だ。アキが知らないだけって可能性もあるだろ」
「いいや、僕はあの家は隅々まで知ってる。洗濯室に手形なんかない!」
思わず「この家」でなく「あの家」と口が滑ったが、言い争いに興奮しているヒューゴは気づかなかったようだ。
「信じられないな、情報源は以前ラザフォード家で働いていた人だって聞いたぜ。サー・ラザフォードがほとんどの使用人を解雇して、家にほとんど入れないのも怨霊の痕跡を見られたくないからだって」
とんでもない。おじいさんが住み込みだった使用人に暇を出したのは、封建的なやり方を嫌ったから。怨霊なんてどこにもいない。一体誰がそんなひどいことを言うんだろう。思わず僕はたんかを切る。
「だったら確かめに来いよ。どこにも女の霊なんかいないから!」