「へええ、ここがラザフォード邸か」
ヒューゴが僕の家にやってきたのは週末のことだった。本当はもっと準備の時間が欲しかったのだけど、せっかちで押しの強い彼に押し切られてしまった。
おじいさんにも、ベネットさんにも、お茶の準備のために休日出勤してくれるマーサも事情はわかっている。学校では、僕はずっとおじいさんの家に住んでいることになっているから、話を合わせるように。口が酸っぱくなるほど繰り返す僕に、ベネットさんは「アキヒコ様があんな狭苦しい部屋でロボットと暮らしているなんて恥です。頼まれたって打ち明けませんよ」と、いかにも彼らしい嫌味をこぼした。
「君のことだから、自家用セスナか何かで乗り付けてくるのかと思った」
いかにも金持ち風な振る舞いを好むヒューゴが「鉄道で行くから駅まで迎えを寄越してくれ」と言ったことには驚いたが、それには理由があったようだ。
「一度寝台列車のコンパートメントを借り切ってみたかったんだ。それに、せっかくロンドンまで来るんだから他の友だちにも会いたいし。自家用飛行機よりはこっちの方が自由がきくだろ」
他の友だち、と言うときに美しい青い目をパチリとウインクしてみせる。どうやら前の学期にデートで寮の門限を破り大問題となったことをみじんも反省していないようだ。
「でも、ひとり旅なんてご両親は心配するんじゃないか?」
「独身生活で部屋を余らせている親戚の部屋に泊まるって言ってある。もちろん彼には口裏を合わせてもらうから心配ない。そうだアキ、踊りに行ったことはあるか? 退屈な社交ダンスなんかじゃなく、大音響と派手な照明の中で酒を飲みながら踊るやつ。今一番の人気クラブのVIPルームに、俺と一緒なら入れてもらえるぞ」
「僕はそういうのはいいよ。ヒューゴも気をつけないと、飲酒は学校にバレたら厳罰だ」
「つまんないことばかり言うなよ」
駅まで迎えに出た車の中で延々と派手な話を聞かされたせいで僕は既にうんざりしている。とはいえ彼のいっそ戯画的にも思えるスノッブな振る舞いは、あまりにあっけらかんとしていて憎めない。それこそが名門の威信を背負ってやってきたお坊ちゃんのロドリゴや、貴族どころか実際は下町のアパートメントで育った僕がヒューゴと仲良くやれている理由なのかもしれない。
さすがの育ちの良さで、ヒューゴはおじいさんや他の大人の前では洗練された振る舞いをみせ、自宅の敷地内にある農場で生産した高級チーズと、同じく家族が経営に関わっている伝統のある醸造所で作られたウイスキーを土産に差し出した。しかも、古い樽から取り出した、一般流通していないとっておきの一本。
「ほう、これは貴重なものを。孫の友人がこんな場所まで訪ねてきてくれるだけでも嬉しいのに、申し訳ない」
おじいさんは毎晩食後に少量の蒸留酒を飲む。ヒューゴの贈り物はお気に召したらしい。
「僕は寮住まいですが、親の教育方針でほぼ毎週末故郷に戻っているんです。農場に出向いて乳搾りや牛舎掃除を手伝うこともありますから、もしかしたらそのチーズは僕が絞った牛乳からできたものかもしれません」
まったく、調子がいい。
ヒューゴがたった一度農場の手伝いをしたのはもう五年も前で、乳搾りに挑戦したものの絹糸一本の太さのミルクすら出てこないことに腹を立てて、二度と牛舎には近寄っていないことを僕は知っている。でも、普段通りの自由気ままな言動でおじいさんやベネットさんをギョッとさせるよりは、いい子ぶってもらった方がずっといい。
一通りの挨拶を終え、馬で敷地内を回る途中にマーサに準備してもらったピクニック用の昼食を食べた。それから屋敷に戻ってお茶の時間。
普段ラザフォード邸で僕が使っているのは、小さなデスクとベッドが置いてある二階の寝室だけ。けれど、普段から暮らしているならば他にも部屋が必要だろうということで、隣の部屋にソファやテーブルを運び込み、急拵えの「僕専用の客間」にした。
「満足した? なんの変哲もない家だし、君の家と比べると粗末で驚いたんじゃないか」
ルバーブのパイを食べながら、ヒューゴは笑う。
「確かに殺風景ではあるけど、よく手入れされたいい家じゃないか。南部はやっぱり明るくていいな。確かにうちは城だけど、古くて湿っぽくて冬なんか地獄のように寒い。こんな環境で暮らせるアキがうらやましいよ。それに……」
「それに?」
「夜は使用人はいないんだろ? サー・ラザフォードもかなりの高齢だから夜更かしもしないだろうし。いいなあアキは、遅くまで起きていようが、ガールフレンドを連れ込もうが誰も気づかない」
珍しい褒め言葉は、そういう理由だった。僕は呆れ顔だが、ヒューゴは気にせず続ける。
「けどさ、アキ。いくら年寄りと暮らしてるとはいえ、この部屋はちょっと殺風景すぎないか? モデルルームじゃないんだから、これじゃ遊びに来た女の子も興醒めしそうだ」
「余計なお世話。君と違って、そういうことはしないから」
言い返しつつ「殺風景」という言葉は引っかかった。普段ここで生活していないと悟られるほどではないが、ヒューゴは急ごしらえの僕の部屋に違和感を抱いている。これ以上突っ込まれることを警戒して僕は話をそらす。
「と、とにかくこれで怨霊の話なんてデマだって納得しただろう。洗濯室の壁にも何もなかった」
あまりに普通の訪問者然としているので忘れそうになるが、そもそおヒューゴがここに来たのは「ラザフォード邸には女の霊が取り憑いている」という不名誉な噂が嘘であると確かめるためだ。
さっき二階に上がってくる途中、こっそり彼を洗濯室に案内して「塗り込めても塗り込めても浮き上がってくる女の手の跡」など存在しないことも確かめてもらった。
ただ奇妙なのは、先日の電話ではあんなに熱っぽく幽霊譚を語っていたヒューゴが洗濯室の壁も「ふうん」と一瞥するだけで大した興味を示さなかったこと。
理由はすぐにわかった。
「ああ、あれは出まかせだから最初から手の跡があるなんて思ってないよ。あの日は雨で退屈だったから、ちょうど観たばかりのホラー映画の内容をなぞって作り話をしたんだ」
「……作り話?」
「だって、アキはどうしても俺をこの家に招きたくなさそうだったから。不名誉な話をすればむきになるかなと思って。おかげで近年は社交の舞台から距離を置いているサー・ラザフォードにもお目通りがかなった。これで両親も俺の旅行が夜遊び目的だと疑うこともないだろう」
その言葉でようやく何もかもを理解した。
首都のナイトライフを満喫し、ついでにガールフレンドとデートもしたくてロンドン旅行の予定を立てたヒューゴ。しかし普段の素行から両親はいい顔をしない。
そこで僕、ラザフォード家の出番だ。多くの資産を持ち、幅広い事業を展開しているものの人嫌いで知られているサー・ラザフォード。その孫息子に招かれ交流を深める――上流階級の息子としてはいかにも立派な休暇の過ごし方ではないか。
「勘弁してくれよ。放蕩の隠れ蓑みたいに使われたと知ったら、おじいさんが悲しむ」
「言わなきゃいいんだ。ちゃんと土産も持参して行儀良くして、俺は礼は尽くしただろう」
「そりゃそうだけど……。ともかく今回限りにしてくれよ。休暇のたびに利用されるんじゃたまらない」
苦言を呈しつつ、僕はほっとしていた。ヒューゴが執拗にここに来たがった理由は、僕の生活に不審を抱いたからではなかった。サーシャとの秘密の生活を暴かれる危険がないなら、そこまで嫌な客というわけでもない。
ひとしきりティータイムを楽しんでから、ナイトクラブに繰り出す前に買い物に行きたいというヒューゴを駅まで送るため玄関に向かった。そのとき呼び鈴が鳴る。
運転手が来たのかとドアを開けると、顔見知りの会計士が立っていた。今日来る予定があるとは聞いていない。僕は面食らいながらもやり過ごそうとする。
「やあ、チェンバースさん。どうしたの、休日に来るなんて珍しい」
小柄で猫背の会計士は手に持った分厚い封筒を持ち上げる。
「それが、急ぎで書類の承認が必要になって、サー・ラザフォードの署名をいただきにあがったのですよ」
「そう、じゃあ……」
事情を知らない人間とのやり取りを長引かせて碌なことはない。挨拶だけで立ち去ろうとするが、見慣れぬ同世代の少年を奇妙に思われるのは無理のないことだった。
「アキヒコさまのご友人ですか? 確かに、ロンドンのお部屋は人を招くには手狭でしょうからね」
しまった、と思う。
「あ、あのチェンバースさん」
「いちいちご友人と会うのにこちらにお見えになるのでは大変ですし、アキヒコ様も越してこられたらいかがですか? 広い屋敷より狭苦しいアパートメントで機械と暮らす方がいいなんて、私からすれば不思議この上ありませんよ」
数日かけて作り上げたシナリオが崩れ去るのは一瞬だ。僕はなすすべもなく、愛想笑いを浮かべて、背後に立っている友人の方を振り返る。
ヒューゴは目を丸くして僕を見つめていた。