「えっと、ヒューゴ。今のは……」
気分は最悪。かといってどうにかすればこの場を取り繕うことができるのではないかという期待を捨て去ることもできず言葉を探していると、玄関前へ車が滑り込んできた。
後部座席にヒューゴと並んで乗り込むと、ドアが閉まる。
「行き先は駅でよろしかったですね」
運転手の問いかけに、僕が返事をするより早くヒューゴが口を開いた。
「悪いが、行き先は変更だ。駅じゃなく本当のアキの家まで行って欲しい」
「ヒューゴ!? 待ってよ」
さっきチェンバースさんが言ったことについて、なんの弁明もしないうちに先手を取られた。
ハンドルを握った運転手は困ったように速度を緩める。主人である僕の指示に従うのが彼の仕事だけれど、かといって送迎対象の客人自身が行き先を変えろと言っている。戸惑うのは当然だ。
ヒューゴは不満げに言った。
「さっきの男は、アキはずっとここに住んでるわけじゃないって言っていたじゃないか。本当の家に案内してくれないなんて水くさい。友だちだと思ってたのに俺やロドリゴに嘘をついていたなんてショックだよ」
秘密を知られただけでなく、ロンドンの部屋に連れて行けだなんて。あんまりな展開に頭がくらくらしてくる。
「と、とりあえず走って」
動揺を隠して僕は運転手に指示を出す。駅までの間になんとか説得して、降ろしてしまえばこっちのものだ。一方で、口の立つヒューゴに口論で勝つのが難しいことも理解していた。
「ヒューゴは、ラザフォード邸に行きたいって言ったんじゃないか。言われた通りの場所を案内したし、おじいさんにも会わせた。僕の家に来る目的が、家族への土産話作りならもう十分だろう」
ヒューゴの本来の目的はロンドンのナイトライフを楽しむこと。ラザフォード家訪問はあくまで口実なのだから、あの部屋に行く必要なんてない。力説するが、彼はそっけなく首を振る。
「アキが二重生活を送ってるっていうなら話は別だ。一体どうしてラザフォード家の坊ちゃんが、後見人と離れて狭苦しいアパートメントなんかで暮らしてるんだ? まさか、爺さんとそりが合わないとか」
彼の青い目は好奇心でらんらんと輝いていた。
「そういうんじゃない、おじいさんは本音では僕にこっちに来て欲しいと思ってるよ。ただ僕が、お母さんと暮らしていた部屋を離れがたくて……」
「思い出の部屋なんかそのまま持っておけばいいだろ。サー・ラザフォードってのも、やっぱり変わり者なんだな。未成年の後継者を一人暮らしさせるなんて、聞いたことない」
「一人暮らしってわけじゃなくて、サーシャが」
「サーシャ?」
「僕の身の回りの世話をしてくれる……アシスタントロボットが」
さっきチェンバースさんは僕が「機械と暮らしている」と言ったはずだった。それでもヒューゴが「一人暮らし」という言葉を使った理由はきっと、彼がアンドロイドをあくまで家電製品の一種と考えているからなのかもしれない。
背に腹は変えられず、本当の生活について問われるままぽつぽつと話すうちに駅が近づいてくる。
「アキヒコ様、もうすぐに駅ですが」
「駅には行くなって。直進しろ」
僕への質問なのに、答えたのはヒューゴ。直進すればロンドン行きの幹線道路だ。
「ヒューゴ、なんの準備もできてない。今日はやめてくれって」
これだけ事情を明かしているのだから、せめて現地確認は勘弁してほしい。情に訴えようと懇願じみた声を出してみたが、泣き落としは通用しなかった。
「準備なんかいらない、こっちも急いでるんだからチラッと部屋を見るだけだ。ラザフォード家のお坊ちゃんの本宅がどんなところか気になる。今後のロンドン訪問の理由にもできるかもしれないしな」
なるはずがない。上流階級の暮らししか知らないヒューゴはきっと、僕のアパートメントを、高級ペントハウスか何かと思い込んでいるのだ。あの部屋を見られること自体を恥ずかしいとは思わないけど――僕や、僕の生活を認めているおじいさんが好奇の目で見られるのは楽しくない。
渋り続ける僕に、ヒューゴはやきもきしたように言った。
「ちらっと部屋を見せてくれたら、さっき聞いた話やこれから見るものについては黙っておく。ロドリゴにも言わない」
「その言い方は卑怯だ」
ほとんど脅迫だ。でも、にやにやとするヒューゴに返す言葉はない。これまでの付き合いから彼の性格はわかっている。僕を貶めたいと思っているわけではない。ただ、興味のあることへの我慢がきかないだけなのだ。そして――少なくとも、約束は守る。
「……家まで行って」
僕は嫌々運転手に指示した。
ヒューゴに悪気はない。僕が逆の立場だったら、絶対に好奇心を抑えられない。そのくらい自分の生活が普通ではないことをわかっている。自由だった小さな頃と比べて、僕の周囲は複雑さを増していく。その中でサーシャとの暮らしを守るためには、できるだけ他人を遠ざけたほうがいいと思っていたのだ。でも、そんな考えにも無理があったのかもしれない。
カバンの中の携帯電話端末に何度も指を触れては離す。友人を連れて行くとサーシャに予告した方がいいことはわかっている。でもヒューゴに筒抜けの場所でサーシャに電話するのは嫌だった。
ドライブの間、要求が聞き入れられたヒューゴはご機嫌で喋り続け、憂鬱な僕は気のない相槌を打ち続けた
大きな河を越え、下町の、ぴったりと隙間なく並んだ建物のひとつの前で車が停まると、ヒューゴは明らかに驚いていた。
「アキ?」
「言っただろ、お母さんと暮らしていた部屋だって。お母さんが死ぬまで僕は、おじいさんが名のある人だってことも知らなかった。君からすればウサギ小屋みたいな場所での生活が僕にとっての普通なんだよ」
「へえ……」
怖気づくかと思いきや、彼の目の好奇心は色濃くなった。足を踏み入れる機会のない庶民的な暮らし、しかもそれが友人の家だなんて面白くて仕方ないのだろう。
集合玄関から中に入り、階段に足をかけるとヒューゴは不思議そうにきく。
「エレベーターは?」
「下町のアパートメントにはそんなものないよ。五階まで歩いて上がるのが嫌なら車に戻れば、デパートまで送る」
「刺々しいな。嫌だって言ったわけじゃない」
小さく舌打ちして彼は僕に続いた。知っている、意地悪で言ったわけではない。ただ、エレベーターのない集合住宅など彼は想像したことないのだ。
階段を上りきって、ドキドキしながらドアを開ける。
「ただいま」
「お帰りなさい。予定より早いようですが、どうかしましたか」
出てきたサーシャは、僕が一人ではないことに驚いたように動きを止めた。
「……お友達ですか?」
僕はうなずいた。
「どうしてもここを見たいって言うから」
以前はベンや他の友だちをたびたび連れてきたけれど、今の学校に編入してからは僕とサーシャとベネットさんでこのドアをくぐる人間はほとんどいない。
元々は僕の友人を歓迎してくれていたサーシャだけど、今も同じかはわからない。何より彼はマナー違反を嫌うから、事前連絡なしでヒューゴを連れてきた僕に腹を立てるかもしれない。サーシャの顔を見たら不安が込み上げた。
僕とサーシャの間に漂った微かな緊張感を敏感に察してヒューゴが一歩前に出る。
「急に押しかけてしまってすみません。僕がどうしてもアキヒコが普段暮らしている場所を見てみたいとわがままを言ったんです」
こういう瞬間に発揮される如才のなさは、ヒューゴがごく幼い頃から複雑な利害関係や人間関係の中で常に人の顔色をうかがってきたたまものなのだろうと思う。僕にはとても真似できない。
「僕はアキヒコくんと親しい友人の、ヒューゴ・テイラー・マーシャルと申します。お名前くらいはご存知いただけていれば嬉しいのですが」
名乗ると同時に軽く膝を曲げ、片腕を胸に当てるボウ・アンド・スクレープ。下手をすればそのままサーシャの手を取ってキスでもしそうな仰々しさだ。
「ええ……お名前は伺っています……」
僕の友人を名乗る少年が、年齢にもこの場にも不似合いな挨拶をしたことで、呆気に取られたサーシャは僕に言おうとしていたことを忘れてしまったようだった。
「ただ、ここのことをあなたがご存知だとまでは」
ヒューゴは僕を見てにっこりと笑った。
「それはまあ、僕とアキは学校でも極めて仲のいい友人なので、特別に彼の秘密を共有してくれたのですよ」
まったく、どこまで調子のいいやつだ。猿芝居に付き合う気にはなれず僕は首を振った。
「ほらヒューゴ、どんな場所か見るだけって言っただろう。家の中を一周したら下に降りるよ。運転手も待たせているんだから」