とにかく僕は、ヒューゴにさっさと家を出ていって欲しかった。
こんな気持ち、ベンや、他の友だちを招いていた頃に抱いたことはない。あの頃は僕の家にサーシャがいることや彼の作る料理が絶品であることはいつだって自慢だった。
この感情は恥ずかしさとは違っていて――要するに僕は、誰かがここに踏み込むことで平穏な生活が脅かされるのではないかと怯えている。
「え? これがリビング? アキの部屋ってこれだけ?」
ヒューゴ家の小ささへの驚きを隠そうとはしなかった。きっとすべての部屋の面積を合計しても、彼の家のリビングルームにすら及ばないのだろう。でも腹は立たない。家が狭い分、この憂鬱な見学ツアーが早く終わるのだと思うと嬉しいくらいだ。
「すごいな、こういう家ってホームドラマの中にしか存在しないと思っていたよ」
興味津々でバスルームまで検分を終えたヒューゴに、サーシャが声をかける。
「せっかくですから、少し休んで行かれませんか。お茶請けがビスケットくらいしかなくて申し訳ありませんが」
僕の客をもてなすのは、彼の仕事。事前に知らせていたらきっと、焼きたてのケーキを準備して待っていただろう。だが今日はそんな必要はない。僕はさっと手を出して、遠慮のかけらもなしにダイニングチェアに座ろうとするヒューゴを引き留めた。
「ありがとうサーシャ。でもヒューゴはすごく大切な夜の予定の前に買い物を済ませる必要があるんだって。最近はこの辺りの取り締まりも厳しいから、あまり待たせると運転手さんにも迷惑をかけるかもしれないし」
「おい、アキ。買い物は……」
間違いなくヒューゴは、サーシャの儀礼的な誘いを受けるつもりになっていたはずだ。なんとしてもそれを阻止したくて僕はそっと彼にささやいた。
「さっと見るだけって約束しただろ。君が僕との約束を守らないつもりなら、こっちは君の夜遊びについて学校に告げ口することだってできるんだ」
さすがにこの言葉は堪えたのだろう、ヒューゴはあからさまにうろたえた。軽く僕をにらみはしたものの、再びサーシャに向き直ったときには借りてきた猫のような態度に戻っていた。
「確かにアキの言うとおり、これから予定があったんでした。今日は残念ながらお気持ちだけ頂戴しておいて、また日を改めてお邪魔します。ここはとても興味深い部屋ですし、あなたのお話も色々と聞いてみたい」
「ええ、アキの友人であればいつでも歓迎します」
サーシャの言葉にヒューゴは満足そうだけど、僕はそれが「僕の友人であれば誰に対しても平等にかけられる言葉」であることを知っている。
一緒に送りに出ようとするサーシャを押し留めて、僕とヒューゴはドアの外に出た。階段に踏み出すとすぐ、ヒューゴは手にしたビスケットをかじる。去り際にテーブルの皿の上から一枚かすめ取ったのだ。
「うまいじゃないか。料理の腕もなかなかだな」
どう返事をすればいいのだろう。口の肥えたヒューゴにサーシャのビスケットを褒められるのは誇らしいけれど、下手に料理の腕を自慢しようものなら料理を食べるためまた遊びに来ると言い出しかねない。サーシャの前でのとってつけたような態度も理解できなかった。
「……これで満足したかい?」
「ああ、面白かった。アキの部屋、寮の個室より狭いくらいだ。まさかラザフォード家の御曹司がこんなキャラメル箱みたいな場所で暮らしてるなんて誰も思わないだろうな」
「あんまり人の生活を馬鹿にするなよ。城なんかに住んでる方が世の中的には少数派なんだから」
僕の前を行くヒューゴはぴたりと足を止める。
「馬鹿になんかしてない。面白いって言ってるだけだ。それに、アキの世話をしてるっていうあのロボットも実に興味深い。造作も動作も、あんな出来のいいアンドロイド見たことないよ。さすがラザフォード家だ。フルのオーダーメイド七日?」
「……いや」
僕は言葉を濁す。サーシャを褒められたこと自体は悪い気はしない。そこらのオーダーメイドなんかより精巧だというのも事実だ。ただビスケットの話同様、ヒューゴにこの領域には踏み込んでもらいたくないのだ。
自分でも言葉にできていなかった嫌な感じの理由は、続くヒューゴの言葉で明らかになる。
「まあ、アキが奥手な理由もわかった気がするよ。男性型ではあるが、ずいぶんきれいな顔をしてるじゃないか。あっちの教育もしてもらってるんだろ」
「は? あっち?」
「しらばっくれるなって。まったく、奥手ぶってると思ったら秘密兵器があるなんて、ずるいよ。どうだ、俺も一度お手合わせ願えないものかな」
そっと中指を立てる卑猥な仕草に、僕は彼が何を言っているのかを理解する。と同時に怒りと羞恥で頭が沸騰した。
「ふざけるな!」
ここが狭い階段であることも忘れて、僕はヒューゴにつかみかかっていた。
友人同士でいるときに性的な話題になるのは珍しいことではない。恋にすら興味のない僕には、その先にあるという肉体的なあれこれはさらに遠い話だ。かといって十五歳の男子ばかりが集まると雑談のテーマは恋愛か性に偏る。周囲から浮きたくない僕はいつも、話の輪の片隅で適当に相槌を打ってやり過ごしていた。
黙って聞いていられたのは、話題の対象が雑誌グラビアを飾るセレブリティだったり、道端で見かけた可愛い子だったり、つまり僕にとっては他人事だったから。
今は違う。ヒューゴは紛れもなく僕の身近な人――もしかしたら家族より大切かもしれないサーシャに邪な欲望を向けた。しかも僕にとってもサーシャがそういう対象だという前提で。
十年間を一緒に過ごして、自分にとっても他の誰かにとってもサーシャがそういった対象になり得ると思ったことはない。驚き、戸惑い、混乱、すべては怒りに変わる。
襟首を掴む手がぶるぶると震えているのを見て、ヒューゴは驚いたように両手を上げて悪意のなさをアピールする。
「やめろよ。危ないだろ、こんな狭いところで」
共用階段は狭くて急だ。ここで揉み合って足を踏み外せば二人とも無傷ではすまない。けれど、怒り心頭の僕はただで手を離すことはできなかった。
「撤回して、謝れよ。サーシャはそんなことしない」
さらに手にに力を込めるとシャツの首元が閉まり、ヒューゴは苦しそうに顔をしかめる。一歩踏み出して壁に彼の体を押し付けると、僕が本気だと理解したのかヒューゴはようやく謝罪を口にした。
「わかったよ、ごめんって。撤回する」
それだけでは納得できなくて、僕はヒューゴの顔を凝視する。彼はもう一度謝罪を繰り返す。
「ごめん、本当だって。もう二度と言わない」
ようやく僕は彼の首元から手を離した。こんな激しい怒りを感じることも、未遂とはいえ誰かに暴力を行使しようとしたことも初めてで、緊張のあまり手はまだ細かく震えている。
拘束を解かれたヒューゴはほっとしたように息を吐いたが、二度目の攻撃を警戒しているのか僕に背後を見せようとはしない。
「そんなに怒らなくたって。別に男を相手にするのも機械を相手にするのも、珍しい話じゃない」
ポツリとつぶやくのは、僕の怒りが不当だという意味だろうか。
確かに、同性のパートナーを持つことも結婚することも認められた権利で、大して珍しくもない。機械と社会的にパートナーになるという話は聞いたことがないけれど――かつてはもっぱら人間が従事していたという性的な産業は、今ではほとんどアンドロイドによるサービスに置き換わっている。
未成年がそういう店を利用するのは違法だから雑談の場で話題に上ることはないけど、たまに「誰それがこっそり年齢制限をかいくぐって童貞を捨ててきた」という噂が流れることはあった。ただ性風俗産業用のアンドロイドは家庭用や教育支援用とはまったく違った製品のはずだ。
「独身男性用の家事支援ロボットは、闇でそっちの機能をつけられるって聞いたことあるんだけどなあ」
階段から落とされそうになったにもかかわらず、ヒューゴはまだ未練がましい。彼はきっと、何かを勘違いしている。
「サーシャはそういうロボットとは違う。育児支援アシスタントのサーシャには関係のない機能だ」
「育児支援?」
「そうだよ。僕のお母さんが死んでから十年間、ずっと僕の世話をしてくれてる。子ども向けの世話や教育機能しかないと聞いてる」
途端にヒューゴの顔から好奇心の輝きが失せた。
「なんだ、あんな精巧できれいな顔をしてるのに子供専用か。服の下まで人間そっくりにできてるかと思ったのに」
ヒューゴは一気にサーシャへの興味を失ったようだった。