ヒューゴを乗せた黒い自動車が走り去るのを見送ると、どっと疲れがこみあげた。とても長い一日だった。しかも、念入りな準備もむなしく僕の秘密はばれてしまったのだ。
とぼとぼと重い足を引きずって階段を上りドアを開けると、早速はじまるのはサーシャのお説教。
「一体どうしたんですか。お友だちを招いておきながら、まるで追い返すみたいな真似をするなんて」
何も知らないくせに悪いのは僕だと決めつける口調にはがっくりしてしまう。
「招いてなんかいない。僕は駄目だって言ったのに、ヒューゴがどうしてもここに来るってきかなかったんだ。第一、興味本位で人の暮らしを詮索するなんて感じが悪いよ」
テーブルの上には、まだ片付けられていないティーセット。ヒューゴが味を褒めていたビスケットに、ティーポットの中では飲めないほど渋くなった紅茶が冷めきっていることだろう。
茶器は、とっておきのお客さんをもてなすときに使う花柄のものだ。何年かぶりに僕が友人を連れてきて、もしかしてサーシャは嬉しかったのだろうか。だとしたら期待を裏切ったことには、少しだけ良心が咎める。でも悪いのは無理を言ってきたヒューゴだ。なのに僕が意地悪をしたかのように言われるのは納得がいかない。
ふてくされた態度を隠そうともしない僕に、サーシャは諭すように言う。
「確かによその家を隅々まで見て回るのは褒められた行動ではありません。でも、あなたは家を見せることに同意して彼を連れてきたんでしょう? だったら礼を尽くすのが筋ではありませんか」
「だから、好きで連れてきたわけじゃないって!」
家まで案内しないとおまえの秘密をばらしてやる、なんて脅迫まがいに同意させられたのだ。礼儀も筋もあったものじゃない。サーシャはもしかして、あいさつのときのヒューゴのうさんくさいほどの礼儀正しさにだまされているのだろうか。そう思うとますますやりきれない気分だった。
これ以上叱責しても効果はないとあきらめたのか、サーシャは聞こえよがしにため息をついてから話を変える。
「ところで、先ほどサー・ラザフォードから電話がありました。駅まで友人を送ると言って出て行ったのに戻ってこない、と心配していらっしゃいましたよ。こっちへ戻ってきたことは伝えていますが、あなたから連絡して謝罪すべきでしょう」
「……うるさいなあ」
ヒューゴの次はおじいさん。これではまるでお説教するために理由を探しているみたいじゃないか。いつものことながら、サーシャは僕の気持ちや行動を鋭く読む割には、肝心なところで見当違いだ。
僕がどれだけの緊張感を持って今日を迎えたかも、思い通りにことが進まずどれほどがっかりしたかも、サーシャは知らない。それどころか、ひどいことを言ったヒューゴの胸ぐらを掴んでサーシャの名誉を守ってやったのに。
言いたいことは山ほどあるけれど、話しはじめればヒューゴの卑猥な暴言までもうっかり告げてしまいそうだ。さすがにそれはタブーだとわかっているから、僕は自分の口を塞ぐためにビスケットを取り上げて口に運んだ。
次の瞬間、手首をギュッとねじられる。
「アキ! 立ったまま食べるなんて、どこでそんな行儀の悪いことを覚えたんですか」
サーシャの冷たく細い指。よく知っているはずの感触がなぜか知らないもののようで、思わず振り払う。
「触るなよ!」
にらみつけようとサーシャの顔を見て、はっとする。
そこにいるのは僕がよく知っているサーシャ。お母さんの亡骸に寄り添っていた病室に現れたあの日から十年間、まったく変わらないサーシャのはずだ。なのに、湧きあがるのはおかしな感覚。
サーシャって、こんなだったっけ?
普段は当たり前に受け止めていることが、本当に当たり前なのかわからなくなってしまう。例えるなら、同じ文字を何度も何度も書き取りしているうちに、その文字のかたちや意味が本当に正しいのか自信がなくなってしまうときの気持ち。
ふと、ヒューゴの言葉が頭の中に蘇る。
――服の下も人間そっくりに作られているかと思ったのに。
そういえば僕は、サーシャの服の下がどうなっているかを見たことあっただろうか。袖口からのぞく手首に丸く張り出した骨。襟から伸びる細く長い首。人間とほとんど変わらない精巧な造作。あの奥はどうなっているんだっけ。
袖に隠された前腕部なら知っている。高い場所から落下した僕を受け止めたとき、サーシャは転倒して腕に大きな切り傷を作った。ぱっくりと開いた傷口から血が出ないのを見て、初めてサーシャは僕とは違う、血の通わない機械であることを実感した。僕への戒めのため傷跡は残しているけれど、その気になれば完全に消し去ることも簡単なのだと聞いたことがある。
もちろん家事をするのに腕まくりをすることもあるし、子どもの頃は僕を風呂に入れるのにスラックスの裾をまくって裸足でバスルームに入ってくることもあったっけ。足の指も、ふくらはぎも、完全な形をしていたことを覚えている。
僕の知る限り、サーシャのすべては精巧に、人間以上に人間らしく作られている。でも、僕は彼の何もかもを知っているわけではないのだ。
「触るなって、立ち食いなんかするから行けないんです」
「た、立ち食いって……ビスケットを摘んだくらいでサーシャは大袈裟なんだ」
すぐに振り払ったのに、サーシャの指の感触が手首に残っているようだった。いや、問題はそんなことではない。僕は今、何を考えていた? とんでもなく変なことを想像しようとしていなかっただろうか。
慌てて妙な妄想を振り払い、怪訝な顔をするサーシャに背中を向けた。
「部屋でおじいさんに電話をかけてくる!」
僕は逃げるように自室に入ったが、とてもおじいさんと話をするような気にはなれない。
ヒューゴの何気ない言葉のせいで、パンドラの箱が開いたみたいだった。これまでサーシャについて考えてもみなかったことが疑問として立ち上がってくる。
密かに集めているロボットのカタログを取り出す。元はサーシャを買い取る場合に必要な金額の見当をつけたくて収集をはじめたもの。あからさまに作り物感を漂わせる廉価品から、写真で見る限りは人間と区別がつかない高級品まで、今では山のようなカタログが手元にある。
サーシャほどではないが、一番近いレベルの商品だと思っているのは最高級の育児支援ロボット。高級品だけあってカタログの紙は分厚くて高級感があり、印刷も鮮明でページ数も多い。
後ろの方の、詳細なスペックが記載されているページを開く。パーツの精巧さをアピールしているのか、指先や耳などの細工が難しいとされる部分のアップの写真が掲載されている。その端の方に――あった、小さな写真だけど、服を脱いだ姿。
顔や、髪や手足の精巧さが嘘のように、最高級アンドロイドの胴体部分は陳腐な造形をしている。人間というよりは、ベンの妹がよく遊んでいた着せ替え人形や、衣料品店のマネキンと似ている。
服を着たときのシルエットは完璧なのに、胴体の――更にいうならば、性的な要素を帯びた部分の造作だけが、思いきって省略されている。つまり、人間の胸先や股間にあるべきものが、男女いずれのモデルにも存在しないのだった。