自分が何を気にしているのか、何に動揺しているのかがわからなくて、だからこそ不安になる。
食事が必須でないとか、定期的に法定点検を受けなければいけないとか、怪我をしても血が出ないとか、成長も老化もしないとか。僕は全部知っていて、でも深く考えたことはなかった。ほとんどの時間を家の中で二人きりで過ごす限り、僕とサーシャの違いなど些細なものだった。
サーシャの服の下がどうなっていようが、僕たちの生活には何の影響もない。今までもそうだったのだから、きっとこれからも。
アンドロイドには、人間のように頻繁にシャワーを浴びる必要がない。動くためのエネルギーは水と空気から作られる。その際に水蒸気が発生するので、わずかに汗はかくらしい。でも、とても少ない量だし、人間の汗のように老廃物が含まれているわけではないから、においや汚れには無縁なのだと聞いたことがある。
もちろん外的な理由で汚れがつくことはあるから、そういうときには体を拭いたり洗ったりする必要があるのだろうけど、頻度としてはごく少ないものだ。着替えはすべて同じシャツとスーツ、下着や靴下も多分同じものばかりが数セット。玄関近くにある、コートなどをかけておくための狭い物入れにしまってある。
サーシャは休息もほとんど必要としない。僕は、彼ならばお母さんの部屋とベッドを使ってもいいと思っているけれど、「あの部屋はあなたの大切なお母様の部屋でしょう」と、掃除のとき以外は入ろうとしない。
腕を怪我したあの晩だけは、サーシャと一緒にソファで眠った。でも、基本的に彼は僕よりも遅くまで起きているし、朝は僕が目覚める前にきっちりと身なりを整えている。
「サーシャはずっと働いていて疲れないの?」
幼い頃、彼の生活習慣を不思議に思った僕がきくと、いつも皮肉たっぷりの答えが返ってきた。
「あなたみたいな手のかかる人の相手をずっとしているのに、疲れないはずがないでしょう」
でも、疲れるなんてきっと嘘だ。だってサーシャがお母さんみたいにダイニングテーブルでほおづえをついて船をこいだり、ソファで居眠りをするようなところ、一度も見たことはない。
ヒューゴの失礼で不愉快な言葉をきっかけに、僕は気づいた。ずっと一緒にいたから「そんなものだろう」と流しているだけで、サーシャそのものについては知らないことだらけなのだ。
「おはようございます」
次の朝、僕をキッチンで迎えるサーシャはいつもと変わらずきっちりと身だしなみを整え、淡々と朝食の準備をしていた。
「……おはよう」
頭が重いのは、よく眠れなかったから。調子が悪いのはすぐにサーシャに気づかれてしまう。
「どうしました、目の周りがむくんでいます。もしかしてこっそり夜更かししたんですか?」
伸ばされた手を、すっと体を引いて避けた。理由はない。ただ、昨日腕をつかまれたときの奇妙な違和感が頭をよぎった。サーシャに触れられると、あれが蘇るかもしれないと怖かったのだ。
「夜更かしだなんて人聞き悪いな。ちょっと寝付きが悪かっただけだよ」
「そうですか。今夜は寝る前にホットミルクでも出しましょう」
サーシャは僕に避けられたことを、ただの不機嫌だと思ったらしい。あっさり手を引っ込めると、朝食の支度を続けた。エプロンをつけて、軽く袖口を捲ったいつものスタイル。僕が昨日、長い時間をかけてあの服の下がどうなっているかについて考えていたことなど、サーシャはちっとも知らない。
「……アキ、どうしました? 食事の前に顔を洗ってきてください。それとも寝不足で具合が悪いようなら、行儀は悪いですが少し寝直しますか?」
ぼんやりとキッチンに立ったままでいると、サーシャが不思議そうに黒い目を向けた。僕はあわてて首を振る。
「ううん、何でもない。すぐ顔洗ってくる。トーストにはバターとママレードを塗っておいて」
顔を洗うと少し頭がすっきりした。テーブルにはトーストと目玉焼き。ベイクドビーンズ、フルーツ、ヨーグルトと、たくさんの皿が並んでいる。
会話がおっくうなので、すぐにテーブルについて食事をはじめた。口にものを入れた状態でしゃべることはマナー違反だから、食べているあいだはサーシャと話をせずにすむ。
大量の食べ物をどんどん口に運ぶ僕を驚きとも呆れともつかない表情で眺めていたサーシャは、食事が一段落したところできく。
「ところで、今日の予定は?」
「図書館で勉強してくるよ。夕方まで戻らない」
本当は勉強する気などちっともないのだけれど、特に予定はないし、家でサーシャと顔を突き合わせているのも気詰まりだ。
相手にも原因のある喧嘩ならばまだましだったろうが、今の一方的な気まずさはもっとずっと居心地の悪いものだ。ヒューゴの下品な軽口をきっかけにした僕の勝手な動揺には、答えもなければ解決策もない。
「だったら、サンドウィッチでも作りましょう」
僕の機嫌が優れないことを察して、サーシャの返事も簡潔だ。すぐに冷蔵庫からチーズとチキンと、リンゴとマンゴーのチャツネを取り出す。最近の僕が気に入っている具材ばかりのサンドウィッチをたくさん持たせてくれるのだろう。
サーシャはいつだって落ち着いていて、変わらない。勝手に悩んだり、拗ねたり怒ったりするのは僕。ひどい態度しかとれない自分にはいらだつけれど、どうすることもできない僕はマグカップのミルクティーを飲み干すと椅子を立った。
長期休暇中の図書館は、うんざりするほど混雑している。隅の方になんとかひとり用の学習スペースを確保して、書棚の方へ足を向けた。
宿題はないとはいえ、休みが明ければ習熟度確認のための試験がある。苦手な科目は休暇中にてこ入れしておく必要があるし、おじいさんの手伝いのため最近は少しずつ経営や投資の勉強もはじめている。それらの関連書を手に取ってはぱらぱらめくるが、すぐに戻す。今日の気分ではない。きっと十ページも読まないうちに眠りに落ちてしまうだろう。
建ち並ぶ背の高い棚はまるで迷路のようで、ぶらぶらとその中を歩き回っているうちに「工学」のエリアに踏み込んでいた。そこでふと「ロボット倫理」という分類タグが目に入る。
瞬間、昨日の電子的家庭支援社とのやりとりが頭に蘇った。
育児用ロボットだけではない、一部の真にその器官が必要なアンドロイド以外は、性的なパーツをつけてはならないという法規制がある。きっかけは人間がそのような用途ではないアンドロイド相手に性行為に及ぶトラブルが続発したから。
並んでいる難しそうな本の中から、比較的薄くて読みやすそうなものを手に取った。『人型機械とセックス』という露骨なタイトルを人に見られるのが恥ずかしいので、『現代社会とロボット倫理』『〈新版〉人型機械と法的権利』といういかにもお堅い本で挟み込んで、座席に戻るとさっそくページを開く。
ぼくが選んだ本は、人型ロボットと性について過去に起こった出来事や議論。それを踏まえての法規制や現状について実例を多く紹介しながら振り返るものだ。
子どもの育児のため借りていた女性型ロボットが夫と性的な関係を持ったとして、妻が製造元を訴えた事件。同僚アンドロイドとのセックスにおぼれた恋人から婚約を破棄されたことによる損害賠償請求へは、アンドロイドの所有者が器物破損を理由に反訴している。
「こんなにたくさん……」
人型機械の外見が人間とほぼ見分けがつかないレベルになり、一般社会に普及したのはここ数十年。機械であるにもかかわらず、外見や反応が限りなく人に近いがゆえに多くの問題が起き、結果として人型機械管理局が設立され、法律が作られた。
サーシャというアンドロイドと長い間暮らしていながら、僕はこの手の話にとんでもなく疎かったことを思い知った。