僕と機械仕掛けとゴースト(15)

 何気なく手に取った本だったけれど、読みはじめると夢中になって、時間はあっという間に経った。

 ヒューゴの言葉を聞くまでは考えもしなかった、人の形をして人のように振る舞う機械を性的にまなざす人間の存在。それによって発生した問題への対処としての、性的な器官の分離。どうやら僕が思っていたよりもずっと、アンドロイドと人間の関係は複雑な歴史を歩んできたようだ。

 人型ロボット開発の歴史、というページには百年ほど前からのアンドロイドの写真がずらりと並んでいる。一番古いものは顔と手足らしきものが付属いるという意味ではかろうじて人型と呼べるが、ゴムのような皮膚の質感もぎこちない表情も、人間とは似つかないクオリティの低いものだ。

 ――初期のロボットの用途は主として製造業種にあった。生産工程に最適化するにはコンベアやアーム等の必要機能のみを搭載した形状が中心であり、「人型」への需要は極めて限定的であった。

 金属や配線を繋ぎ合わせただけの無骨な機械が、工場で何かを作っている写真。小学校の社会見学でこういった場面をみたことがある。今も、製造業ではこの手の目的特化型の機械が中心なのだ。

 製造コストが高くつく割に、動作の効率は悪い。生産工程では必要とされなかった人型ロボットは、その後、サービス業での需要が高まったことで急速に開発が進む。対人サービスでは、作業効率よりは、人間と同じ姿で、まるで感情を持っているかのような繊細な受け答えをすることが求められた。

 客というのはわがままなもので、高い水準でむらがなく、かといって接客を求める。かといって賃金水準も労働条件も高いとはいえないサービス業で、そんな高い要求に応えられる人材を十分に確保することは難しい。生身の人間が埋められない部分にロボットの需要が生じる野は必然だった、と本にはある。

 人が求めること、だけど人はやりたがらないこと。その隙間を埋めるために生み出された限りなく人間に近いロボット。便利である一方で、人間そっくりであるがゆえの問題を引き起こすのは必然だったように思えた。

 アンドロイドが狂言誘拐に利用された事件をきっかけに、実在の人間をモデルにしたロボットの作成は禁止された。僕もその事件のことは知っている。だって友だちだったビビはまさに、「死んでしまった本当の娘をモデルに」作られた女の子だったから。そのことが知られてすぐに、彼女は連れて行かれてしまったから。

 実在の人間をモデルにしなくとも、外見を思うようにデザインできることから生じる問題もある。過去には、理想の姿の人型ロボットを作成した変わり者が、機械との結婚が認められないことは人権侵害だとして国を訴える事件も起きている。最高裁まで争った結果「機械は婚姻対象となりうる人格を備えていない」として原告が敗訴した。

 機械と結婚なんて、おかしなことを考える人もいるものだ。人ごととして読み進めて、判決の引用を目にしたところではっとする。

 ――原告は所有する人型機械が婚姻に係る意思決定能力を有すると主張するが、当該機械の応答はすべて規定のプログラムに沿って出力されるものであり、原告の主張に正当性は認められない。

「当該機械の応答は、規定のプログラムに沿って出力…………」

 そっと繰り返すと、僕の中でざわざわした気持ちが大きくなる。と同時に、これまで感じてきた不安や違和感の一部の答えを、おぼろげではあるもののその文章の中に見つけた気がした。

 ベンの家にいたアニーは、点検中の事故でいとも簡単に家族の記憶を失った。そして契約期間を終えると完全にリセットされて、今は街中ですれ違ってもベンの存在に気づきもしない。僕はそれを寂しくて理解できないことだと情緒的に解釈してきた。

 でも、アニーがベンを忘れてしまったことにも、ベンが「もううちのアニーじゃないから」と冷淡な態度をとることには、もっと根源的な理由があるんじゃないだろうか。

 その章の終わりは、こんなふうに締めくくられていた。

 ――生理的な機能は異なるものの、外観的に人間と容易に判別できない人型機械を作成することは技術的に可能である。一方でソフトウェア面に関して述べると、複雑な反応や高度な自己学習機能が実装されてはいるものの、あくまでそれらは人為的なプログラムの延長であり、機械そのものが意思能力を有しているわけではない。社会的、倫理的観点からはロボット技術のこれ以上の進歩には極めて慎重な判断が必要である。機械に機械以上の人格を望むことは生命への挑戦であり、パンドラの箱を開けることに他ならない。

「パンドラの、箱」

 いくら人に似た姿をしていて、人と同じように会話して反応しているように見えても、人型機械は結局のところ便に過ぎないし、それ以上のものにしてはいけない。そういうことを言っているのだ。

 書かれていることはきっと正しい。なのに、ひどくおそろしく寒々しい気持ちになってしまうのはどうしてだろう。

 きっと、過去に起こったアンドロイドを巡る事件や、それをきっかけにした規制のすべてが、人や人の社会を守るためのものでしかないからだ。

 用途として想定されていないのに無理やり性行為の対象とされたロボットも、勝手に実在の人間と瓜二つに作られただけのビビも、誰からも守ってはもらえない。彼らはただ「人間にとって不都合だから」排除されてしまう。だって彼らは人間ではないし、ただプログラミングされた通りに動いているだけで意思も感情もない。

 あいつはどうせロボットだから。機械のくせに。街のあちこちで聞く言葉。僕だって、本心でないとはいえ喧嘩の勢いでサーシャに同じような言葉をぶつけたことはある。でも、こうして立派な肩書きのある先生が真面目に論じているのを見ると、心臓をギュッと掴まれたような気分になる。

 ヒューゴが僕のサーシャに性的な視線を向けたのは不愉快だった。でも、世の中が人型のロボットを――つまり僕のサーシャを、人格などないただの機械としか見なさないことを突きつけられることは、もっとずっと不愉快だ。

 ――残念ながらこれら法規制の網目をかいくぐっての違法なアンドロイド製造、改造の摘発は後をたたない。社会の混乱を防ぐために、当局は厳格な規制の運用に努めるべきである。

 そう結ばれた本を、バタンと大きな音を立てて閉じた。

「読まなきゃ良かった」

 さっきまで夢中になっていた本なのに、今では手にしたことすら後悔していた。

 あくまで機械は機械。線引きを守らなければ社会のモラルは崩壊する。僕だってもう子どもではないのだから、頭では理解できる。理解しているつもりだ。けれど、僕はビビみたいに繊細な女の子ロボットを知っているし、サーシャだって――確かに表情はやや乏しいけれど、そこらの大人よりずっと細やかに僕の言葉や行動に一喜一憂して――あれがただのプログラムに過ぎないなんて信じたくない。

 十年間一緒にいた、この世で誰より僕をわかっていて、僕を思ってくれる存在。だからこそ僕は、十八歳になって以降もサーシャと離ればなれにならずにすむ方法を探し続けているのに。

 これまでは、いつまでもサーシャに執着して子どもっぽいと、ベネットさんに嫌味を言われる程度だった、僕にはお母さんがいないから、そのお母さんが契約してくれた遺産だから、「かわいそうな子の、ちょっと逸脱した行動」として見逃されてきた。

 僕はどうやら甘く考えていたようだ。お金の問題さえ解決できれば、多少変なやつだと思われたとしてもサーシャを近くに置き続けることは不可能ではない――それはもしかしたら楽観的すぎる考えだったのではないか。成人した人間が、育児支援ロボットを所有し続けること。それはきっと、僕がこれまで想像していた以上に普通ではないことなのだ。