僕と機械仕掛けとゴースト(16)

 本に夢中になるうちに、気づけば昼をずいぶん過ぎていた。

 どれだけよどんだ気分でいても、しっかりと空腹はやってくるので成長期の体とは現金なものだ。

 館内での飲食は禁止されているので、座席は確保したままで図書館の中庭に出た。短い夏の日差しを一ミリたりとも逃すまいと、たくさんの人が芝生の上でくつろいでいる中、周囲と適度な距離がとれるスペースを見つけて僕も人の群れに同化する。

 出かけるときにサーシャから渡されたランチバッグはずっしりと重い。紙袋の中からは具だくさんのサンドウィッチ、赤いワックスに包まれた小さなチーズ、りんごが次々と出てくる。気温が高いので、魔法瓶の中身はスープではなくレモネードだ。このレモネードはおじいさんの家の庭でとれたレモンとジンジャーを蜂蜜に漬けたサーシャお手製のシロップを使ったもの。

 そういえば一緒に暮らしはじめた最初の頃は、サーシャの作るものはほぼすべてはお母さんのレシピだった。お母さんとまったく同じ味の料理を作ることに驚いたけれど、おかげで少しだけ、大切な家族を亡くした悲しさは和らいだ。

 今ならわかる。お母さんは自分の病気が治らないことを知ってから、代わりに僕を大切に育ててくれる存在を探して――サーシャを見つけて、密かに準備を進めていた。僕がどういう子どもなのか、日々どんな生活をして、どんな助けを必要としているのか。そして、好きな食べ物やそのレシピもすべて、サーシャに託していったのだ。

 最初はお母さんとの暮らしや思い出を壊さないように、まったく同じやり方。そして、少しずつ変わっていった。たとえば小さかった頃の僕は酸味のある食べ物は苦手だったから、レモネードなんて決して飲もうとはしなかった。これはお母さんのレシピではない。サーシャがどこかで作り方を覚えてきて、僕が気に入ったから定番に加えられた。リンゴとマンゴーのチャツネとチェダーチーズを挟んだだけのシンプルなサンドウィッチだって、お母さんのレシピではない。チャツネには隠し味程度のチリペッパーが入っていて、甘さと辛さの絶妙な具合が気に入っている。

 昼食すべてを目の前に並べると、ちょっとした家族のピクニックくらいの量になる。自分でも笑ってしまう食欲だけど、たくさん考えごとをして脳の栄養を使い切っていた僕は、目の前の食べ物を片っ端から平らげていった。

 そういえばサーシャは「念のため多めに入れておきました」と言っていた。空っぽの魔法瓶以外何も持ち帰らなかったら、驚く……いや、あきれた顔をするに違いない。

 よく手入れされた芝生は柔らかく、手で触れると少しひんやりとして気持ちがいい。薄暗い図書館の中とはまるで別世界の明るさと心地よさに、このまま少し昼寝でもしたい気分で、僕は緑のカーペットの上にごろんと寝転んだ。

 新鮮な空気の中で伸びをすると、凝り固まった頭や体がほぐれて、ここ最近の憂鬱な気持ちも抜けていくようだった。

「……ちょっと、余計なことばかり考えすぎたかもしれない」

 ロボットの歴史とか、機能とか法律とか、どうだっていいじゃないか。僕は僕でサーシャはサーシャだ。何も変わらない。成人した男が育児ロボットと暮らし続けたからといって、陰口を叩きたい人には叩かせればいい。ベネットさんや、あまり会ったことのないラザフォードの親戚は変わり者の跡継ぎに嫌な顔をするだろう。でも、これまでもいつだって最終的にはおじいさんが僕の味方になってくれた。

 ずるい考えではあるけれど、僕は自分のおじいさんが力を持っていることを知っている。多少の無理でもおじいさんがいればどうにかしてくれる――それは、契約期間が過ぎてからもサーシャを傍に置きたいというわがまますら、強く訴えれば叶えてもらえるということだ。

「まあ、そううまくいくとも限らないんだけど」

 現実は何一つ動いていないのに、勝手な想像で悲観と楽観の間を揺れ動いている自分に気づいて、なんだかおかしくなってきた。

 周囲からおかしく見えないよう、笑いを噛み殺しながら改めて手足を伸ばす。最近の僕には子どものころから使っているベッドすら手狭になりつつある。あっという間に伸びていく手足の長さに、家具や洋服も追いつかないし、何より僕の意識が一番追いついていないのかもしれない。

 おじいさんは身長が高くがっしりした体格をしているし、お母さんはすらりとして女の人の中では長身な方だ。お父さんは――どんな人だか知らないけれど、一般的に東洋系は小柄な傾向にあるとは聞く。サーシャの背丈を追い抜いて、僕の身長はどこまで伸びるんだろう。

 そんなことを考えていたら、ランチバッグに入れて持ってきた電話端末が鳴りだした。

「もしもし……」

 こちらが名乗るのを遮るように、ここ数日の憂鬱の根源である人物の声が響いた。

「よお」

「……なんだヒューゴ、君か」

 ジェットコースターのような感情の乱れは、ヒューゴが無理やりに僕の家を訪れようとしたことからはじまった。あれだけのドタバタ劇を繰り広げ、僕がひどく気分を害したことなど気づいているはずなのに、彼の口ぶりは普段とまったく変わらない。

「先日はどうも。おかげで久しぶりのロンドンを満喫できたよ。サー・ラザフォードにもよろしく伝えてくれ」

「わざわざお礼のためだけに電話を?」

「まさか! ラザフォード邸で手厚くもてなしてもらった話をしたら、両親が非常に喜んで、お礼にアキを我が家に招待すべきだって盛り上がってるんだ」

 はっきりいってこちらの怒りはおさまっていない。わざと冷淡な口ぶりで返事をしながら、なんなら電話を切ってやろうかと思っているくらいなのに、ヒューゴはあっけらかんとしたものだ。天真爛漫なのかただの無神経なのかはわからないけれど、何にせよこれも彼の育ちの良さゆえなのだろう。図々しいことこの上ないのに、どこか憎めない。

 とはいえ、北部にあるヒューゴの家はあまりに遠い。これまでだって休暇のたびに遊びに来るように誘われていたけれど、面倒で断り続けていた。この手のいわゆる「社交」は、僕が今のカレッジで学ぶことにした目的のひとつなのに、いまひとつ熱心になれないのは僕にもおじいさんに似た人嫌いの要素があるのかもしれない。

「ありがとう。そのうち時間ができたら是非お邪魔させてもらうって、ご両親には伝えておいてよ」

「まただ。そのうちそのうちって、アキヒコはいつも年寄りみたいなことを言ってごまかすんだからな。ちょうど二週間後に父の六十歳の誕生祝いをやるんだ。せっかくだからそこに来い」

 やっぱり電話をすぐに切った方が良かったかもしれない。後悔する僕にヒューゴは追い打ちをかける。

「心配するな。ロドリゴも呼んだ。連れも一緒に来るそうだ」

「いや、いくらロドリゴが来ようが僕は行かない。それに連れが一緒だなんて、なおさら居心地が悪いよ」

 ロドリゴには故郷に許嫁がいる。何度も見せてもらった写真に映っていた美しい少女の姿を思い出すと、そんな場所に一人で出かけるなんてとんでもなく場違いに思えた。

「昨日のあいつを連れてくればいいじゃないか」

「おい、身内を冗談のネタにされるのは嫌いだって、昨日言っただろう!」

 起こった僕から階段から落とされかかったにもかかわらず、まったく反省のないヒューゴに思わず声を荒げると、すかさず笑いでいなされた。

「真に受けるな。ロドリゴの連れは兄貴だよ」