僕と機械仕掛けとゴースト(17)

「そういうわけで、ヒューゴの家に行くことになったから、その週はここに手伝いに来ることができないんだ」

「素晴らしいことではないですか!」

 おじいさんの家のリビングルームで僕が告げると、ベネットさんがすかさず身を乗り出す。

「将来のことを思えばソーントン家との親交を深めるのは素晴らしいことです。ご令息だけでなく、この機会に親類の方々とも大いに交流してくるのがよろしいでしょう」

 同意を求めるように彼が振り返ると、定位置である椅子に座ったおじいさんも大きくうなずいた。

「若い頃は大いに友人を作り、見聞を広げるのがいいだろう。この館で私の仕事を見習うよりよっぽど将来のアキヒコの役に立つ」

 おじいさんの仕事は、ほとんどこの家の中で完結している。けれど、それは代わりに動いてくれるベネットさんや他の人々に支えられてのこと。それに、今では人嫌いで有名なおじいさんだけど、若い頃は社交にも意欲的だったらしい。その頃に積み上げた経験や人脈があるからこそ、今はさして付き合いの場に顔を出さずとも仕事が維持できている――これまでも、うんざりするほど聞かされた話だ。

 僕は本当は、知らない人たちに囲まれて窮屈な思いをするよりここでおじいさんの傍にいたい。でも、ヒューゴの両親が好意で誘ってくれていることは事実だろうし、今の学校に進んだ理由のひとつが「人脈作り」である以上、たまにはこうして周囲の大人を喜ばせるのも必要なのかもしれない。

 とりあえず旅行の許可は出た。が、それだけで話は終わらない。ベネットさんはそわそわと手帳を開く。

「ところでソーントン家の本宅に伺うとなると長旅ですね。旅行の手配はどのようにいたしましょうか? それに、アキヒコ様は遠出ははじめてですから……」

「それならいいよ、もう算段は立っている」

「算段とは?」

 不審そうな表情。たとえ国内であろうと、僕に旅行の段取りなどできるはずがないと見くびっているのだ。侮られている悔しさから僕の言葉は冷たくなる。

「鉄道で行けば、駅まではヒューゴの家が車を出してくれる」

「では、そこまではおひとりで? 乗り換えのない長距離列車とはいえ、途中で予定外のトラブルが起きたら、アキヒコさまおひとりでは対処できないのではありませんか?」

 ベネットさんの懸念はそのとおりで、この国の鉄道はしばしば事故や車両故障により運行計画が大きく乱れる。ほんの数時間車内で待たされるくらいならばまだましな方で、迂回のため別の列車に乗り換えさせられたり、場合によっては「後は自分でなんとかしてくれ」とばかり、夜の駅で放り出されてしまうこともあるのだという。

 万が一の場合、自分で切符を買い直したり、場合によってはホテルを押さえたり。世慣れているヒューゴには造作ないことだろうが、ひとりで鉄道に乗った経験すらほとんどない僕が想定外の事態に対応できるかは、正直不安なところだった。

 本当は、そのくらいひとりでも大丈夫だと言い切ってみたかった。でも、おじいさんやベネットさんが納得してくれないであろうことは確かだし、何より僕自身もひとり旅ができる自信はない。

「……だから、サーシャを連れて行くんだよ。旅程を立てるのも、切符の手配もやってくれる」

 ベネットさんが驚いて目を剥く。

「まさか、サーシャを同伴して行くのですか?」

「誤解するな、サーシャには現地のホテルで待機してる予定だよ。ヒューゴは家に泊まればいいと言ってくれたけど、気詰まりだから断った」

 冗談交じりとはいえ、ヒューゴが「パーティにサーシャを同伴してくればいい」と言ったことは黙っていた。話がややこしくなるだけだ。第一、いくら友人の軽口とはいえ、あんな品のない冗談を言った人間の前に二度とサーシャを出したくはない。

「でしたら、まあ」

 若干不満そうにうなずくベネットさんを諫めるようにおじいさんも言った。

「サーシャが一緒なら心配はないだろう。アキヒコはこれから社交の場に出る機会も多くなるだろうから、友人の家のインフォーマルな集まりからはじめるのはいいことじゃないか。本当なら幼少の頃から連れ歩いて経験を積ませるのが一番なんだが……」

 少し気まずく語尾が濁るのは、それをやってこなかった、できなかったことへの後悔もあるのかもしれない。

 僕はラザフォード家とは絶縁状態で育てられたし、お母さんの死後ここに通うようになってからも、自分がおじいさんの跡継ぎになるという認識を持つまでは何年もの時間がかかった。知らない大人も知らない場所も苦手な僕は、いくら誘われたところでパーティなんて行かなかっただろう。

 おじいさんだって社交の場からはもう数十年も遠ざかっている上に、体も万全ではない。僕への教育のためだけにそういった場所に足を運ぶことは難しかっただろう。

 どことなく重い空気が部屋を漂い、それを断ち切るようにベネットさんが立ち上がる。

「さて、ではアキヒコさま。まずはパーティのマナーからですね。挨拶のやり方、食事の作法。それから……」

 僕はぎょっとして、首を振る。

「待ってよベネットさん。言っただろ、パーティといってもごく親しい人だけの打ち解けた場所だって。食事だって立食だから、肩肘張らずに来て欲しいって言われてるんだ」

 サーシャは食事マナーに厳しい。経験豊富とまではいえないし落ち着かないので好きではないけれど、白いナプキンが引いてあって、皿が次々出てくるようなレストランにも何度か行ったことはある。いまさら作法の心配をされるほどではないつもりだから、ベネットさんの指摘は面白くない。

「ずいぶん自信がおありのようですが、そのような場は初めてでしょうし……」

「うるさいなあ。大丈夫だって言ってるだろ」

「なんですか、その物言いは!」

 一触即発、というところでおじいさんが大きな咳払いをする。はっとして僕もベネットさんも口をつぐんだ。

「作法については普段のアキヒコの振る舞いを見ている限り、問題はないだろう。あとはせっかくお招きいただいたのだから、適当な土産と、そうだ――」

 そこでおじいさんは視線を僕に向け、頭の先から爪先までまじまじと確かめた。

 髪はきれいに整えているし、シャツもズボンも皺ひとつないはず。靴だって毎朝サーシャがピカピカに磨いてくれている。一体何が気になるのだろう。ベネットさんの言うことはほとんど「いちゃもん」だと思っているけど、おじいさんからこんな目で見られると、自分に足りないものがあるのではないかと不安でたまらなくなる。

「あの。おじいさん、何か?」

 居心地の悪さに口を開いた僕に、おじいさんは言った。

「せっかくの機会だ、服や靴は一揃い仕立てた方がいいだろうな。すぐに職人を呼ぼう」

「え? いいよ、わざわざそんな。服ならたくさん持ってるし」

 もちろん、どれも百貨店で買った良い品ばかり。わざわざ職人を呼んで新しい服を仕立てるなんて、ただ友人の家を訪れるだけなのに大げさすぎる。けれど、僕が止める間もなく「それは良いお考えです」と、ベネットさんは電話をかけに部屋を飛び出してしまう。

「アキヒコ、背丈も伸びておまえもずいぶん立派になった。今身につけているものが悪いと言っているわけではないが、そろそろ大人たちに混ざっても恥ずかしくない礼服を揃えていてもいい年頃だろう」

「……おじいさんがそう言うなら」

 しぶしぶ説き伏せられたところで、しょぼしょぼと残念そうにベネットさんが戻ってくる。

「今日は多忙で、どうしてもここまでやってくることは難しいそうです。あまり日もありませんし、いかがいたしましょう? 明日以降ロンドンの家にやることにしましょうか?」

 おじいさんが懇意にしているようなテーラーだから、きっとすごくたくさんの立派な人から、たくさんの注文を受けて多忙に違いない。わざわざ僕の服を採寸するためだけにそんな人を呼びつけるのは、あまりに申し訳ない。

「いいよ、こちらから出向くから」

 僕はおじいさんに頼んで工房の場所を教えてもらった。どうせ休暇中で、こちらはいくらでも時間があるのだから。