僕と機械仕掛けとゴースト(18)

 僕にとってはじめての長距離列車。それは、最初の一時間ほどは新鮮で楽しく――その後はとても疲れるものだった。最初はもの珍しく思えた田園風景にもやがて飽きるし、何時間も座った姿勢のままでいるのでだんだん体がこわばってくる。

「あと何時間で着く?」と質問を何度繰り返したときだっただろうか、サーシャはとうとう時計を確かめるのを止めて、これ見よがしにため息を吐いた。

「飛行機の方が時間はかからないって言ったのに、どうしても列車に乗りたいって言い張ったのはアキ、あなたでしょう」

 自業自得を指摘されると分が悪い。北部に向かう列車から見える景色は美しいと聞いていたし、実のところ僕は少しだけ飛行機が怖かった。もちろん鉄道旅行を主張したときには、同じ座席にじっと座り続けることがこんなにも苦痛だとは知らなかったのだ。

「……そういえばサーシャは疲れないんだっけ。だったらわかんないよ」

 家事育児用とはいえ一定程度の重労働に耐えられるようにアンドロイドの肉体ボディは頑丈に作られている。長時間同じ姿勢を強いられたところで、感じる苦痛はそれほどでもないのかもしれない。人間に労務を提供するための設計であるとはいえ、こういうときはサーシャの体がうらやましくなってしまう。

 妬ましさと無理解への苛立ちが入り混じった視線を向けると、サーシャは即答する。

「疲れますよ」

「え、そうなの?」

 意外な返事に驚くが、続くのはさっきの倍量の棘が散りばめられた言葉だった。

「車窓の景色を楽しみたいから鉄道にすると言ってきかなかったくせに、今になって文句ばかり。わがままなあなたの相手をするのに疲れ果てています」

 つまり、本当に疲れているのではなく、単なる僕への当て擦りというわけだ。ここで言い返しても勝ち目がないことはわかっているから、僕は黙って目を閉じる。こういうときは眠ってしまうのが一番だとわかっていた

 それから数時間。出発から五時間以上列車に揺られ、ようやく僕たちは目的地についた。駅のホームで大きく伸びをして、こわばった体を伸ばす。いっぱいに吸い込んだ北部の空気はロンドンより澄んで冷たいように思えた。

 タクシーでホテルに向かう途中、窓から見える旧市街の街並みはまるでファンタジー映画のようだ。400マイルも北上すれば街の色も空の色もこんなに異なるのか。遠出にも旅にも興味なく生きてきたけれど、こうして見知らぬ街に身を置いてみると好奇心が湧き上がってくる。

「……ちょっとでいいから外を歩きたい」

 ホテルの部屋に荷物を置くなり訴えてみるが、すでにサーシャはベッドの上に仕立てたばかりの礼装一式を並べはじめていた。

「何言ってるんですか。メインイベントが終わってからゆっくり観光したいと言ったのもアキ、あなたでしょう。あと半時間ほどで迎えの車が来るんだから、外に出ている暇なんてありません」

「わかってるよ。ちょっと言ってみただけ」

 そう、気づまりな予定パーティを済ませてから気楽な状態で休暇を楽しみたいとサーシャに頼んであった。僕は今夜約束通り、ヒューゴの家を訪ねることになっている。

 僕のおじいさんの家にしてもそうなのだけど、伝統ある名家というのは郊外のだだっ広い敷地の中にあるのが普通らしい。ヒューゴの〈城〉まではここからさらに車で二時間近くもかかるから、ホテルに迎えの車をよこしてくれることになっている。せっかく体を伸ばせたのに、また後部座席に押し込められるのだと思うと気が重くなった。

「ほら、着替えましょう。今来ているものを脱いで」

 サーシャが新品のドレスシャツを差し出してくるのを、引ったくるように受け取った。

「いちいち言わなくたって、勝手に着替えるよ」

 受け取りのときの試着を別にすれば、はじめて袖を通す服。柔らかく滑らかなシルクのひんやりとした感触は気持ち良さと居心地の悪さを同時に呼び起こす。要するに、しっくりこない。

 おじいさんが教えてくれたテーラーは、老舗の仕立て屋ばかりが並ぶ有名な通りの一角にあった。

 大人が着るような立派なスーツばかりが並んでいる場所に、僕はどう考えても不釣り合いだ。一歩足を踏み入れた瞬間逃げ出したくなったけれど、サーシャが店員に僕の名を告げると、まるで百年前からのお得意様であるかのようににこやかに店の奥に通された。

 その店ではビスポークのスーツ一式は早くても数週間、普通は数ヶ月かかるところ、採寸から十日ほどで完成品を受け取ることができたのは、おじいさんの口利きがあったからだった。

 まるで一人前の大人を扱うように丁寧な態度で、大人用と変わらない服のための採寸をしてもらうのはくすぐったかった。普段は百貨店でレディメイドの服を買っている。どうせすぐにサイズアウトしてしまうのだから既製品を買い替えていく方が効率的だ。

 サーシャと一緒に服を採寸してもらうのは、きっと二度目。最初は出会ってすぐ、黒い服を作るために店に連れて行かれた。あれは、お母さんのお葬式で着るための服だった。まだひとりでシャツのボタンを止めることもできず、サーシャに着替えを手伝ってもらったことも覚えている。

 あの頃はともかく、今では僕はひとりで風呂に入れるし、着替えは自室でする。寝台が二つ並んだホテルのベッドルームで、荷解きするサーシャのすぐ隣で着替えるのはなんとなく落ち着かない。かといって、出ていってくれと言うのも自意識過剰に思われそうで、せめてもの抵抗で背中を向けた。

 ふと視線を感じて振り返ると、サーシャが僕の背中をじっと眺めている。

「何? 背中に何かついてる?」

「いいえ」

 こちらを見るなという意味で言っているのに気づいているだろうに、サーシャは視線を逸らさない。それどころか、まじまじと僕の全身を見つめ、しみじみと呟いた。

は人形の服みたいに小さかったのに、まるで別人ですね」

 別人。確かにそうかもしれない。人形の衣装どころかきっともう、僕の服はサーシャには丈が余るほどだ。

「……いつも、子ども扱いするなって騒いでばかりでしたけど、こう見ると」

「一人前に見える?」

 気恥ずかしさを覆い隠そそうとシャツの襟を立ててサーシャの方を向き直ると、彼は「背丈ばかり大きくなって。早く中身も追いついて欲しいですね」と苦笑した。

「それにしても、もったいないな。僕の身長はまだ伸びるだろうから、これもすぐ着られなくなると思うんだけど」

 支払いはサーシャが済ませてしまい、具体的な請求額は教えてもらっていない。でも、サンプルとして置いてあるレディメイドの服ですら数千ポンドする店なのだから、この一式はゾッとするほどの値段であるはずだ。

「きっとサイズが変われば、サー・ラザフォードはまた快く新しい服をあつらえてくれますよ。あなたが礼装を要する場所に出かけるようになったことを喜んでいらっしゃるんですから、ありがたく受け取っておくべきですよ。それに……正直、私も安心しました」

 最後の部分は少し小さな声だった。僕は思わず聞き返す。

「サーシャが? どうして」

「お友達を連れてきたとき機嫌が悪かったから。それどころか彼を送ってきた後は、ひどく腹を立てているように見えました」

「あれは――」

 そこまで言って、口をつぐむ。ヒューゴが口にした下品な言葉、あんなものサーシャに伝えられるはずがない。視線を逸らして、ベッドに座るとドレスシューズに足を入れた。

「別に、何もないよ。ヒューゴが自分勝手だから、ちょっと腹が立っただけ。本気で怒ってたら今日の誘いに乗らないよ」

 そうですね、と頷いたサーシャが手を伸ばす。指先が頬を掠めて、くすぐったさに悪寒にも似た感覚が背中を駆け抜けた。しかし、それもほんの一瞬のこと。彼はただ、僕の首元のボウタイが曲がっているのを直そうとしただけだった。

 冷たい指先の淡い余韻が肌から消えると同時に、ドアがノックされた。

「ラザフォード様、お迎えの車が到着されたようです」

 ロビーに降りると、僕だけが迎えの車に乗り込む。

「じゃあ、行ってきます」

 小さくサーシャに手を振ったところで、ふと視線を感じた気がした。サーシャの後ろ、次に入ってくる車を待っているのだろうか、仕立ての良い服を着た男がこちらを見ている。隣には品の良いドレスの女性。

 似合わない高級服を着た子どもがひとりで黒塗りのに乗り込むのがおかしいのだろうか。気まずさに目を伏せると同時に、車がゆっくりと走り出した。