翌朝のアカリは極めて不機嫌だった。せっかくの久しぶりのセックス、せっかくの久しぶりの臨時収入の予定。どっちも台無しにされた。何もかもあののぞき魔野郎のせいだ。
あの後の顛末は、まさしく無残そのものだった。
よりによって人のセックスを見て嘔吐するとは何事かと怒り狂ったアカリは、後ろから自分を貫く男のことなどすっかり忘れてのぞき魔に向かって怒鳴り、靴を投げた。
「ふざけんな、テメエ。人のセックス見てゲロ吐いてんじゃねえよ」
その声に驚いた背後の男は、急に冷静になって「どうしたの?」と聞いてくる。自分たちの行為が見知らぬ誰かにのぞかれていて、しかもそれを見て嘔吐されたと聞いては興ざめだったのだろう。男の勃起も見る見る萎えて、せっかくの雰囲気が壊れてジ・エンド。
二人とも一度もイけないままだったから申し訳なくて、アカリは金を受け取らずにいそいそと公園を後にした。
――思い出すだけで、むかつく。
不機嫌の理由はそれだけではない。昨晩は怒りと興奮で気づかなかったが、どうもあののぞき魔には見覚えがあるような気がするのだ。過去に出会い系で会った相手ではない気がする。だとすると、他のバイトか学校か。いずれにしても、隠れゲイのアカリにとって知り合いに男との逢引きをみられたかもしれない今の状況は穏やかではない。
気分はまったく優れないが、高い学費を払って通っている大学をサボるわけにはいかないのでアカリは重い腰を上げて学校へ向かう。なんせ仕送りゼロ。なんせ苦学生。大学は講義も設備も使い尽くして、きっちり元を取ると決めている。
アカリは大学でメディア評論を専攻している。もともとぼんやりとマスコミや出版業界への憧れがあったし、何より本や映画、音楽は好きだった。もちろんそれを将来仕事にできるのかはわからないが、せっかく学ぶのなら好きなことをやってみたかった。
校舎に入ると掲示板に何やら人だかりができている。
手続きは何だってウェブサイト経由でできてしまう時代に逆らうように、そしてメディア評論という横文字入りの専攻名にも逆らうように、この大学では重要な発表や公表には掲示板が活用され続けている。
以前「めんどくさいんですよね。ネットで見れるようにしてもらえませんか」と教務のおばちゃんに訴えたところ、あっさり「掲示板に出すと、それ見るためだけに学校に来なきゃいけないから、それがいいのよ」と返された。
確かに、すべての学生がアカリのようにまめに学校に出て来るわけではない。世の中には金持ちの道楽的に、とりあえず大学生の肩書きと、その後の大卒の肩書きを得るためだけに入学して来るような生徒も多い。いや、むしろその方が多数派だと思えるのは単に自分が卑屈なだけなのだろうか。
アカリは人だかりの後ろから近づくが、掲示の内容は見えない。後にしようかと迷っていたところに、もみくちゃになりながら前列から友人の千奈美が出てきた。
「あ、おはよ、アカリ」
「おはよう、千奈美。掲示板なに? 大事な知らせ?」
「やだ、アカリ忘れてたの? 今日、所属ゼミの発表じゃない」
昨晩の騒動で忘れていたがそうだった。
社会学部では三年の途中からゼミ活動が始まる。半月ほど前に希望調査が行われ、今日が発表日だったのだ。慌てて人混みに突入しようとするアカリのTシャツを、千奈美が引っ張って止めた。
「安心していいよ。アカリは第一希望のとこに名前あったから」
その言葉にほっとする。
「うわ、良かった」
「アカリ、倉橋先生のところにすごく行きたがってたもんね」
「千奈美は?」
「わたしは第一希望外れちゃって、工藤先生のとこ。まあいいんだけどね」
第一希望を外れた千奈美に遠慮して控えめに喜んで見せたアカリだが、千奈美の姿が見えなくなると同時にその場で小さくガッツポーズをする。何しろこの大学に入った大きな目的がようやく果たされたのだ。
アカリはどうしても倉橋ゼミに入りたくて、一年の頃から倉橋の授業は全て取っていたし、何度も何度も相談に行きゼミへの体験参加もした。
倉橋は大学教員としての仕事の他に執筆評論活動も活発に行っていて、アカリにとっては高校生の頃から憧れの人だった。しかもその豊富な人脈で、倉橋ゼミにはときおり豪華なゲスト――新進気鋭の評論家や、文字、絵、音、映像を問わず作家などが訪れるのだという。刺激的で勉強になる環境であることは確実だった。
これで昨日の嫌な出来事は帳消しになった。……と思ったのはしかし、つかの間。早速喜び勇んで倉橋の部屋へ挨拶に向かったアカリは、ちょうど教授室から一人の学生が出てくるのを見た。
黒い半袖のシャツに、細身のデニム。カラーリングしていない少し長めの髪。おしゃれではないが特にダサいわけでもない。ごく普通の地味な学生――ではなかった。
近寄って顔を確かめたアカリは思わず大声をあげる。
「ああああっ、おまえっ、昨日のっ」
そう。そいつはまさしく、昨日アカリの野外セックスをじっとりと眺めた挙句に嘔吐した男だった。残念ながらアカリが投げた靴は彼に当たらず、吐くだけ吐いたそいつはハンカチで口を拭いながらそそくさと立ち去ったのだが、まさかこんなところで再会するとは。
「人のセ、セ。いや、あの、なんでのぞき魔がここにいるんだよ!」
「なんでって、自分の学校だから」
のぞき魔は一切後ろめたさも気まずさもなさそうに答えた。アカリよりは頭半分ほど背が高い。伸びた前髪の間から切れ長の目がアカリをじっと見る。
ああ、どこかで見たことがあると思ったら、大学だったのか。嫌な予感が的中した。しかもこの受け答えから言って、こいつも昨日目にした相手がアカリだということには気づいているのだろう。せっかくの倉橋ゼミ当選で舞い上がった心が地底へ沈む。
「で、なんでおまえが倉橋先生の部屋の前にいるんだよ」
よりによって、こんなところで出会うなんて、最悪も最悪だ。すると、のぞき魔は右手に持ったA4サイズの紙を差し出し、印刷された文字列のある場所を指で示し、一言つぶやく。
「俺もここの所属だから」
紙には「倉橋ゼミ新入メンバー」とタイトルが付いている。新入りのゼミ生リストだ。アカリは千奈美の報告に安心して結局掲示板を見ないままここに来てしまった。目的は教授とゼミ内容なので、正直他の新入生などどうでもいいと思っていた。
指さされた場所は学籍番号と、名前が並んでいるうちの一行。
「20xxK1527 蒔苗 聡」
入学年次は同じ、専攻を示すアルファベットも同じ。こののぞき魔はなんと、同じ大学同じ専攻の同級生だったのか。しかも、今日からは同じゼミ。
アカリはしばし沈黙し、ようやく言葉を絞り出した。
「と、とき……なえ?」
「まかない、だ。まかないさとし」
笑いもせず怒りもせず、淡々と訂正してくる。それがアカリとのぞき魔――蒔苗との本格的な出会いだった。