「嫌だ」
アカリは即答した。
そりゃそうだろう。こんな突然で、しかも突飛な頼みを二つ返事で受けるような人間がこの世のどこにいる。
しかし蒔苗は、アカリに断られたことがさも心外であるかのように眉根を寄せた。
「なんでだよ」
「なんでだ? そんなの聞くまでもないだろ。なんで俺がわざわざおまえのために、おまえの趣味に合わせたセックスに付き合ってやんなきゃいけないんだよ。そもそも俺は知り合いとは寝ないの! 隠れゲイだからな」
「でも俺はもう、おまえがゲイだって知ってるから今さら隠れもなにもないだろう」
これだけはっきり断っているのに、まだ説き伏せようというのか。しかしその手には乗るまいと、アカリは続けざまに「蒔苗とは寝ない理由」をまくし立てる。
「だから絶対に嫌だって。俺はセックスは楽しみたいの。死体みたいにぶっ倒れたままで突っ込まれるのなんか絶対に無理。第一、なんでそんな、楽しくもなくて面倒で金にもならないことやんなきゃいけないんだよ」
あ、もしかしたら失言が混じったかもしれない。
「……おまえ、金もらってセックスしてるのか?」
一瞬の間をあけて、案の定蒔苗は食いついてきた。アカリはちっと舌を鳴らす。
またひとつ余計なことがばれてしまった。野外で男とセックスしているところを見られただけでも気まずいのに、それがいわゆる援助交際であることまで自分から明かしてしまうとはうかつだった。
「べ、別に売春じゃねえよ。恋愛とか面倒だし、趣味と実益っていうか、相手に変にその後の関係を期待されても嫌だから、ちょっとだけ金もらうことにしてるんだよ」
少しだけさっきまでより小さな声で、言い訳がましく言い募るアカリに、蒔苗は口元に手を当てなにやらしばらく考え込んでから口を開いた。
「いくら取ってるんだ?」
「に、二万円……」
「じゃあ、五万」
……は?
「一回五万ならどうだ」
まさかこいつ、俺を金で買う気か? カッと頭に血がのぼる。
「ふざけんなっ。誰がおまえなんかに」
「やることは同じだろ。むしろ素人相手に五万円なんて、金額としてはかなり弾んでいる方だと思うが」
確かに誤解されても仕方ない部分はあるが、金さえ払えば簡単に寝る人間だと思われたことが悔しかった。アカリは椅子を激しく蹴飛ばしながら立ち上がる。
感じの悪い奴だが同じマイノリティだと思って親切に話を聞いてたら、この仕打ちか。アカリはそれ以上蒔苗にはなにも言わず、リュックをつかむとドアに向かって大股で歩き出した。
もう、脅されても頼まれても絶対に蒔苗の話は聞かない。強い覚悟でドアノブに手をかけたところで、背後から何かがフラフラと飛んできてコツンと扉にぶつかって落ちる。
それは紙飛行機だった。ふざけるのもいい加減にしろ、と踏み潰し、ドアノブを回したところで蒔苗が一言。
「見てみろよ。ゼミの夏合宿の案内。明里はまだ見てないだろ」
「……合宿?」
少し迷ってから、たった今自分のスニーカーで踏み潰した紙飛行機を拾い上げ、開く。
それは、夏休み中に行うゼミ合宿の案内だった。毎年夏に合宿を行っているのは聞いていたし、「任意参加」ということにはなっているが例年全員が参加するイベントであることも知っていた。
他大学とのワークショップが組まれたり、豪華ゲストを招いての実習が行われたり、あちこちのゼミが合宿を実施している中でも倉橋ゼミの夏合宿は内容が充実していると評判で、アカリもずっと楽しみにしていた。
ただ、懸念していたのが参加費の問題だ。昨年は一週間河口湖で泊まり込みで、その前の年は北海道。年によって場所も費用も異なるが――。
「十万円!?」
アカリは思わず大声を上げた。せいぜい五万もあればなんとかなると思っていたが、予想を大幅に超えた金額は苦学生のアカリにとって簡単に作れる金ではない。
「シンガポールで、現地の学生とワークショップ。マークさんの知り合いが仲介してくれたらしくて、現地でのスタディビジットも色々組んでるから助成費使ってもその値段になるんだって」
「じゅ、じゅうまん……」
「あ、ちなみにそれはあくまでA案で、金額的に厳しいメンバーがいればB案で瀬戸内って案もあるらしい。まあ、すでに明里以外にはA案で了承取れてるみたいだけどな」
シンガポールでワークショップ。喉から手が出るほど行きたい。だが十万円を払って、しかも合宿の間はバイトに入れないことを考えると後期の授業料納入が厳しい。
だったら授業料はしばらく滞納して――いやいやそれは人としてどうか。とはいえ他の皆がシンガポール行きを楽しみにしているところを、アカリひとりの経済事情のせいでふいにしてしまうことは許されるのか?
ドアノブを握ったままぐるぐると思いを巡らせていると、背後から悪魔の声がアカリの耳をくすぐった。
「俺とのセックス、二回分だな」
アカリはごくりと唾を飲み込んだ。