13. 眠りの落下速

「何これ」

「アルコールと一緒に摂るとよく効く」

「だから、何だよこれ」

「睡眠薬だ。ちゃんと処方されたやつだから危険じゃない。明里はそれを飲んで寝ているだけでいい」

 アカリは反射的に、手にした薬のパッケージを蒔苗の顔面に投げつけた。

 バカだとは思っていたが、こいつは本当にどうかしてる。アルコールと睡眠薬を一緒に摂取して危険じゃないだと? 「死体のふり」をするとは約束したが、それが薬物を使って眠っている間に体を好きに使われることだとは聞いていない。

「帰る! 薬使うなんて聞いてないからな。いくら五万もらえてもそんな危険な真似、割に合わないだろ」

 立ち上がるアカリの腕を蒔苗がつかみ引き止める。

「大丈夫だ、自分でも試してみたから。今も俺はピンピンしてるだろう」

「そういう問題じゃないだろ!」

 蒔苗の腕を振り払い玄関へ向かうおうとするアカリの背後から、再び悪魔の囁きが耳をくすぐってくる。

「七万円」

「……は?」

「安全が確認できないから不安なんだろ。だから、初回は二万のボーナスをつける」

 アカリは足を止めて、頭の中で電卓を叩く。

 一時間九百二十円のファミレスのバイト。時給千五百円の引越しバイト。ええと、七万円稼ぐには一体何時間……。それに危険といえばファミレスだって調理中に火傷くらいはするし、引っ越しで重いものを持ち損ねれば怪我くらいはする。それとこれとの危険度合いの違いはどれほどのものだろう。

 そして悪魔は畳み掛ける。

「考えてみろ、同じゼミの奴を死なせたりすれば大変なことになる。俺だってそんなにバカじゃない」

「いや、バカだろ。処方薬他人に飲ませようとする時点で」

 とはいえ、七万円の魅力はアカリにとって抗いがたい。それに、こいつ自身が試した上で大丈夫だったと言っているのだ。まあ、蒔苗が嘘をついていなければの話ではあるが。

 結局、アカリが玄関にたどり着くことはなかった。

「……じゃあ七万で。もし少しでも危険な感じになったら今回きりだからな。病院沙汰になったらもちろん経費はおまえ持ちだぞ。それだけは覚えとけよ」

「わかった」

 アカリはダイニングに戻ったものの、心の踏ん切りがつかずしばらく錠剤を眺めていた。なんせアカリは極めて快眠、これまでの人生で睡眠薬の類にお世話になったことなど一度だってない。これを飲んだ後自分の体に何が起こるか、想像もつかない。

 が、いくら考えていたところで仕方ない。

 ええい、ままよ。封を切った睡眠薬をチューハイで一気に飲み干す。どうだ、一気に眠くなるとか、昏倒するとか。どきどきしながら自分の体の反応を待つ。

「えーと、何も起こりません」

「効き目が瞬時に出るはずないだろう」

 どうやら効果が出るには少し時間が必要なものらしい。まあ、そりゃそうか。

 やがて眠気よりも先にアルコールの酩酊感がやってくる。リビングのソファーに移動したアカリは、羨ましくなるようなメディアライブラリを眺めながら、蒔苗に絡みはじめた。酔うといつだって少しだけ饒舌になる。

「おまえ、何でこんないいとこ住んでんの。しかも五万とか七万とかポンポン払えるって。ムカつくなあ、親の金だろ?」

「元本は親の金だが、まとまった額の生前贈与を受けた上で自分で運用して増やしてるから、俺の金とも言える」

「自分で汗水たらしたんじゃない以上、一緒だろ」

「短絡的だな。不動産や株式投資だって立派な収入源だ」

「いいんだよ、そういうブルジョワな話はどうせ俺には関係ないから」

 何だよ、やっぱり家庭環境に恵まれた苦労知らずのお坊ちゃんか。

 それにしたって、何の不満も不安もないような蒔苗が一体どうしてこんな奇妙な性癖を持っているんだろう。いやいや、性癖なんて俺が生まれつきゲイなのと一緒で、環境や本人の意思でどうにかなるわけではない。ゲイよりさらにマイノリティな蒔苗はある意味不幸な存在ではないか。次々と断片的な思考がアカリの脳裏に浮かんでは消える。

「明里はバイトに明け暮れてるらしいな」

 蒔苗の声。ふんわりと耳に届く。何だ、こいつ、そんなことまで知っているのか。

「誰かさんと違って、仕送りももらってないし学費も自分で払ってるからな。もちろん生前贈与なんか無しで」

 次の質問までは少し間があく。

「苦労してるのか?」

 ストレートに物を言う蒔苗にしては珍しく、言葉を選ぼうとしたのだろうか。確かにまあ「実家が貧乏なんだな」とはさすがのこいつも言いづらいに違いない。しかしアカリは首を振って否定する。

「苦労ってほどじゃないよ。母子家庭で下にも兄弟がいるから、俺が一人で金食うわけにはいかないんだ。地元の国公立なら行かせてやるって言われたけど、都会の私大に行きたがったのは自分だし」

「ふうん」

 自分のわがままを通したんだから、自分が苦労するのは当たり前のこと。ただときたまちょっと疲れてしまうだけだ。

「蒔苗、なんか眠くなってきたかも」

 徐々にまぶたが重くなり、意識がとろんとしてくる。これが睡眠薬とアルコールの相乗作用か。さっきまでは、あんなに怖かったのに、今はただふわふわと気持ちが良いだけだ。

 足元のおぼつかないアカリを半ば抱えるようにして、蒔苗は立ち上がる。リビングからいったん廊下に出て、隣のドアを開ければそこは寝室。大きなクローゼットとベッドだけがある部屋だった。

 背中からどさりとベッドに落とされる。アカリの部屋にある安物のパイプベッドとはまったく違う、スプリングの効いた大きなベッドは、ぱりっとした洗濯したての寝具に包まれていて、なんだかいい匂いまでする。

「蒔苗、おまえ本当に俺とセックスするの?」

 回らない口で問うと蒔苗は「ああ」と返事をしながらアカリの体をベッドの真ん中へ持っていく。冷たい手が頬に触れ、首に触れ、くすぐったくてアカリは笑う。それを見て、蒔苗もかすかに笑ったような気がした。

「おやすみ、明里」

 そして、アカリの意識は落下した。