15. 殴ってはみたものの

 痛む体を引きずって大学にたどり着いたアカリはとりあえず教室に向かい二限の授業を受ける。そして午後、ゼミ共用の部屋に行くと当たり前の顔をしてそこにいる蒔苗に歩み寄り――。

「おい、蒔苗」

 名前を呼んで少しだけ時間を与えるのは武士の情け。でもそれ以上は容赦しない。アカリは思いきり蒔苗の頬に右フックを見舞った。防御態勢を取っていなかった蒔苗はそのまま椅子から転がり落ちた。ついでに椅子も倒れたため、部屋にはけたたましい音が響き渡る。

 驚いたのは部屋にいた他のメンバーだ。

「ちょっと、アカリどうしたの?」

「アカリくん!?」

 時間が早いので数名しかいなかったのが幸いだが、百合子は驚いて床に転がった蒔苗に駆け寄り、野田はアカリがなおも蒔苗に襲いかかるのではないかと警戒していつでも割って入れる体勢をとる。ヘッドフォンをかけてパソコンに向かっていたマークだけは一呼吸遅れ、顔を上げると険悪な光景に目を白黒させている。

「おい、アカリくん。何があったのか知らないけど、急に殴ることないだろう」

 野田からとがめられるが、アカリは自分が悪いとは一切思わない。そもそも原因を作ったのは蒔苗なのだから、あれだけのことをして一発殴られるくらいで済むならむしろ感謝して欲しいくらいだ。アカリは痛みを散らすように、何度か軽く右手を振りながら蒔苗の様子をうかがう。 蒔苗は――驚いていた。普段あまり感情が顔に出ない男だが、さすがに目を見開いて、自分が殴られる理由など一切わからないといわんばかりの顔で無様に床に転がっていた。

 ざまあみろ、思い知ったか、と爽快な気分になったのはしかし一瞬。唖然とした様子でアカリを見上げていた蒔苗が、助け起こそうと百合子が差し出した手を断りよろよろと立ち上がる姿に、アカリはじわじわと哀れっぽさを感じはじめた。

 いや、もちろん悪いのは蒔苗だ。安全だと言って丸め込んで薬で眠らせ、抵抗できないアカリに無茶をした。さらにはひどい状態のアカリを放置して自分だけ学校に行き、一言の謝罪もなく飄々としている。どこからどう見ても、多分十人に事情を話せば十人が悪いのは蒔苗だと言うだろう。もっともそんな突拍子もない経緯について他人に説明する勇気はアカリの側にもないのだが。

 しかし、問題は別の場所にある。

 おそらく蒔苗は理解していない。一切悪気なくあれだけのことをやってのけているのだ。地獄への道は善意で舗装されているというが、実際のところ悪意がないのが一番たちが悪い。なぜならアカリは被害者からのささやかな仕返しのつもりで蒔苗を殴ったのに、しかもたったの一発で勘弁してやろうという情けまで見せたのに……。

 あんな目で見られるとなんだか自分が悪いことをしているような気がしてくる。例えるならば悪いことを悪いことだと認識していない幼子や犬猫を折檻してしまった後のような、なんともいえない罪悪感にアカリはどうしようもない居心地の悪さを感じた。

 蒔苗が立ち上がりアカリを見る。アカリも蒔苗を見て、口を開く。周囲の面々は緊張した様子で対峙する二人を取り囲み、アカリの言葉を待つ。

「い……言い訳があるなら、聞いてやる」

 完全なる精神的敗北といっていいほどの譲歩。それでも蒔苗は、アカリの意味するところがわからないようで、きょとんとした様子で聞き返した。

「言い訳って?」

「だーかーらー、お前がやった……」

 思わずシャツをまくり上げて体の傷を見せようとしたアカリを、このときばかりは思いもよらない素早さで蒔苗が止めた。

「明里、人前だ」

「……おまえ、そういうとこだけ常識ぶるんじゃねえよ」

 脱ぎかけたTシャツを元に戻し、アカリは蒔苗の腕をつかむと居心地の悪いゼミ室を後にした。理解不能の茶番に付き合わされた挙句、一切の説明もなく部屋に取り残された三人は、ずかずかと廊下を去って行く二人の姿を心配そうに眺めていた。

「何をそんなに怒ってるんだ」

 腕を引かれながら、蒔苗ははじめて怒りの理由を問うた。ああ、さすがに怒ってるのは理解したんだ……そこまで考えて、アカリは自分の蒔苗への期待値が限りなく低い位置まで下がっていることを今更ながら思い知る。

「クソ鈍いおまえでもそれくらいはわかるんだな。だったらもう少しがんばって考えてみろよ」

「……わからない」

 ダメだ、こんなトンチキに自分で考えさせていたら、百年たっても結論は出ない。人影のない非常階段まで蒔苗を引っ張って行くと、アカリは立ち止まって振り返る。蒔苗はいつもの仏頂面――に見えて、困ったような、戸惑ったような顔をしていた。

 いやいや、なんでこんな奴の表情読み取れるようになってきてるんだよ。アカリは自分で自分にツッコミを入れるが、実際動物だって一緒に過ごしていればかなりのところまで気持ちがわかるようになるのだから、そろそろ自分が蒔苗の感情表現を理解するようになるのも無理ないことなのかもしれない。もっとも蒔苗は一切アカリの感情を理解していないようだが。

「俺、今朝傷だらけで吐きそうで、しかも起きたら誰もいなくてすっげえ怖かったんだよ。人がぼろぼろになって寝てるのみて、おまえ全然心配にならなかったのか?」

 アカリの言葉に、蒔苗は本人なりに誠実に当時の状況と心境を思い出そうとしているようだった。

「多分、最中は夢中になっていて引っ掻いたり中出ししたりしていたことには気づかなかった。すまない」

「終わった後にでも、気づけよ」

「いや、できるだけ明里のことは見ないようにして、シャワーを浴びて家を出たから。だって、せっかく擬似死姦の夢が叶ったのに、薬の効き目が切れた明里が急に起きて動き出したら興ざめじゃないか。ゾンビじゃないんだから、死体は起き上がったりしない」

 結論。蒔苗聡はとことん自分本位な人間である。まあとっくの昔に気づいてはいたのだけれど。

「……」

 呆れ果てて何と返せばいいかわからずにいるアカリの手を、驚くべきことに蒔苗は突然にぎゅっと両手で握りしめてきた。

「でも、明里、ありがとう」

「は?」

 ありがとう、などという言葉をこいつから聞くのは初めてだ。というか蒔苗が他人に対する感謝の情を持ち合わせていること自体アカリは今の今まで知らなかった。しかし、蒔苗はつい今までアカリに怒られ責められていたことすら忘れたかのような、普段より浮かれたような、率直にいって気持ち悪い調子で続けた。

「昨夜は、すごく良かった」

 今、自分は睡眠薬で眠りこけて体を好き放題に使わせただけのセックスのことを褒められている――ということに気づくまでに数十秒を要した。そして、決定的に何かがずれている男を前にアカリはうなだれるしかない。

「……それは、どういたしまして」