16. アカリ、初体験を振り返る

「ふうん、とりあえず仲直りしたならいいけど、人前でああいうのやめてよね。先輩たちもびっくりしてたよ」

 コンビニエンスストアで買ってきたばかりのアイスコーヒーを、くまなく冷えるようストローでぐるぐるかき混ぜながら百合子が言う。

「悪かったよ。あのときは俺も興奮しててさ」

 アカリは素直に謝った。

「あのとき」というのはもちろんゼミのメンバーの面前で蒔苗を殴り倒したときのことで、あの後残された三人は、一体アカリと蒔苗の間に何があったのかと散々心配したらしい。

 ときおり院生もやってくるゼミではあるが、基本は学部生七人の小さな所帯。その中で険悪なもの同士が生まれては、当然活動がやりにくくなる。周囲の懸念は至極まっとうなものだった。

「大体、何があったのよ。アカリがあんな風になってるの初めて見た。蒔苗くんだってそりゃ、人当たりが良さそうなタイプではないけど、殴られるようなことするようにも見えないから」

 するんだよ、殴られるようなことを。しかもとっておきの酷いことをな! ……という心の叫びはしまっておいて、とりあえずアカリは笑顔とでまかせで場を凌ぐ。本音は隠してニッコリ無難に。こういうのは得意だ。なんせアカリには長年蓄積されたゲイ隠しの経験と技術がある。

「前の晩、あいつの家で飲んでさ。一限に間に合うよう声かけてくれって言ったのに、あいつ俺を置いて行っちゃうし。しかも酔って、寝てる俺の腹に油性マジックで落書きするんだから」

「えっ……やだ蒔苗くんそんなことするの?」

「するする。あいつ泥酔させるとマジでやばいんだから、ゆりっぺも気をつけろよ」

 もちろん概ね嘘だ。だが「蒔苗は死体好きで、擬似死姦のために男を金で買う奴だ」とばらされるのに比べたら、この程度の風評被害は甘んじて受け入れるべきだ。アカリは百合子に向かって、ありもしない蒔苗の泥酔伝説を語って聞かせた。罪悪感。そんなものは微塵もない。

 しかし実のところ、アカリはもう蒔苗に対してそんなに怒ってはいない。あまりに蒔苗の側に罪悪感がなさすぎるというか、レベルが低すぎるというか、怒るだけバカバカしい気がしてきたのが理由のひとつ。

 そして理由のもうひとつは、自分でも実に安直で単純だとは思うのだが……実はアカリは、セックスを褒められるのに弱いのだ。

 アカリが初めてセックスをしたのは高校二年生の夏休み。当時はまだガラケーを使っていたので、死ぬほどの勇気を出して携帯電話用の出会い系サイトに書き込みをした。

 周囲で脱童貞報告が目立ってくる時期になると、どうしても色恋のことが気になってくる。だが隠れゲイの身では身近な場所での出会いはまずありえない。どうにか外の世界に出て行かない限り、一生自分は恋にもセックスにも無縁で終わっていってしまうのではないか。アカリはアカリなりに必死だったのだ。

 自分が心惹かれる相手が男の子ばかりだということには小学生の頃から薄々気づいていたが、それが一般的な性志向と違っていることを知るには少し時間がかかった。

「僕は二組のカスミちゃんが好きなんだ。アカリは?」

「俺は、村上くんかなあ」

 無邪気にアカリが答えるたびに、周囲は「友達の話じゃないよ。アカリはガキだなあ」と笑った。当時のアカリはクラスでも三番目に背が小さく年齢以上に幼く見えた。その外見と、発育の悪さゆえに何をやらせてもとろかったことから、同級生の男子連中からは基本的に舐められていたものだが、今思えばガキだと馬鹿にされていたことにアカリは救われていたのだ。

 忘れようにも忘れられない小学校五年生の秋。同じクラスになったばかりのとある男子生徒について、友人たちが陰で噂話をしているのを聞いてしまった。

「なあ、知ってる? あいつ夏休みのキャンプで寝てるとき、同じテントの高野くんに抱きついたらしいぜ」

「聞いた聞いた。しかも、あそこが硬くなってたって」

「うっわー、あいつ、ホモかよ。高野のこと好きなのかな。気持ち悪いな、なあアカリ?」

「うん? ……うん」

 意味もわからず空気に流されうなずきながら、アカリの頭の中をいくつものクエスチョンマークが飛び交っていた。

 ――ホモ?

 母子家庭に育った上に、長男であるアカリは、性に関する知識を与えてくれる年上の同性に恵まれていなかった。

 要するのものすごく奥手で、そのとき初めてアカリは、なんだかよくわからないが男のあそこが硬くなることには特別の意味があるのだろうということを知り、「ホモ」という言葉を知り、ついでに男が男に抱きついたり、男が男を好きになったりすることが周囲の子どもたちにとって「気持ち悪い」行為であることを知ったのだった。

 その日以降、アカリは気持ちに蓋をした。絶対に自分が同性に惹かれるということを人に知られてはいけない。ばれたらきっと「気持ち悪い」と言われて除け者にされる。母親や弟妹にも悲しい思いをさせてしまうかもしれない。

 というわけで、一生恋愛もセックスもあきらめるつもりで暗い青春を送っていたところ、そこに燦然と現れた救世主が文明の利器、携帯電話とインターネットだった。

 本名も素性も明かさず同好の士と出会える夢の機械を手にしたアカリは初めて「自分も人並みにセックスというものができるのかもしれない」と考えた。

 もちろん恋愛に憧れがないわけではないが、同じ人間と継続的な関係を築くことは周囲へのゲイばれの危険も高めてしまう気もする。だからとりあえずは、若い体の渇望が満たせれば、それだけでも良かった。

 そして、期待して臨んだ初めてのセックス。携帯サイトには危険な相手も多いと聞いておそるおそる待ち合わせ場所に出かけたが、相手は二十代のサラリーマンで、美男ではないが清潔で礼儀正しい男だった。初めての優しいキス、丁寧な前戯、これぞ夢に見たセックスなのだとアカリは舞い上がったが――理想どおりに進んだのはそこまで。

 いざ挿入となると、多少自分で弄った経験がある程度のアカリの後ろはあまりに狭く固かった。ゲイビデオを見て、あんな大きなペニスでもきちんと慣らせばすんなり入って最初からアンアン気持ちよくなれるものだと思い込んでいた、そもそもそれが甘かったのだろう。

 ローションを使って丁寧にほぐしてもらったにも関わらず、そこは一定以上柔らかくなってくれず、しびれを切らした相手の男は無理やり挿入してきた。激痛に「やめて」と叫ぶアカリ。あまりの狭さにペニスが痛むのか、苦痛の声をあげる男。

 率直に言って、大失敗だった。

「ごめんなさい……全然良くなかったよね」

「うん、まあ……こういうこともあるよ……」

 ヒリヒリと痛む尻に泣きたい気持ちをこらえて、アカリがなんとか絞り出した言葉に、すっかりテンションの下がった男も一切のフォローなく答えた。

 そのときのことは長らくアカリのトラウマだった。いや、過去形ではなく経験を積み失敗しなくなった今も完全には克服しきれていないのかもしれない。アカリは相手から満足の言葉を聞いたり、セックスを褒められたりするといまだに舞い上がる。

 そう、例えばそれが自分の意に沿わないかたちのセックスで、相手が蒔苗であろうとも。