冷静に考えれば、頭の中では「これ以上あんな変人に付き合うのは危険だ」という、まっとうな結論が出ている。しかし、卑怯にも蒔苗が「すごく良かった」などと言ったものだから、アカリの中に妙な迷いが生まれてしまった。
アカリはおだてに弱い。そして、好奇心も強い方だ。
頭の痛みと気分の悪さは数時間で消えたし体の痛みも数日で癒えた。喉元過ぎればなんとやらというが、あんなに怖くて不快な思いをしたことも、怒りに震えたことも決して記憶から消えてしまったわけではない。しかし、どうしても気になるのだ。
あの夜、何が起きたのか。意識を失った自分に蒔苗はどんな風に触れ、「すごく良かった」と評したのか。表情に乏しい男がどのように自分を抱いているのか、しかも「すごく良かった」というほどの。そんな、下衆な興味もある。
蒔苗が映写室で一人慰めているところは目撃したし、あのときも多少興奮している様子ではあったが、だったらさらに進んだ先にはどんな表情があるのだろう。アカリはまだ、蒔苗との二回目の約束をどうするかについて決めかねていた。
シンガポール行きの参加登録期限は来週の頭。既に七万円は手元にあるので、あと三万くらいなら多少無理をすればなんとかなる。なんなら出会い系で二人と会えば四万円だ。この間は蒔苗という邪魔が入ってしまったが、青姦という危険さえ冒さなければそうそう失敗することはないだろう。
スマホを取り出して、いつものアプリを開いて、ときには投稿用の文章まで作った上で結局画面を閉じてしまうことを、アカリは何度も繰り返した。
蒔苗ともう一夜過ごせば、それだけで五万円は手に入る。多少引っかかれたりはまあ百歩譲って、薬と酒の併用さえ断ればさすがに死ぬようなことにはならないだろう。
ただし問題は、行為の最中アカリがすっかり意識を失っていることで、「死体のふり」という条件が変わらない以上、何度繰り返してもアカリの好奇心が満たされることはない。
「ただののぞき魔かと思ったら、あいつ厄介な野郎だな……」
悔し紛れにつぶやいた、それが天恵だった。そうだ、蒔苗とやっているところを自分が確かめることができないのならば、代わりに「のぞき」をやればいいんじゃないか。
もちろんどこかの誰かに頼むような気持ち悪いことはしない。だって、今は二十一世紀。文明の機器があるのだから。
アカリは早速、家にあるデジタルカメラの録画可能時間を確かめた。
これを物陰に設置してセックスの最中の様子を録画すればいい。俺って天才。だがしかしアカリの所有するコンパクトデジカメの録画時間は最長でも三十分しかない。蒔苗がセックスにどれだけの時間をかけているかはわからないが、これでは心許ないような気がする。
ええい、こういうときは金持ちに頼むに限る。アカリはよりにもよって蒔苗を呼び出すと、単刀直入に聞いた。
「なあ、ビデオ撮りたいんだけど、長時間撮れるコンデジ持ってない?」
「ビデオカメラなら、マークさんがいいやつ持ってるから頼んでみればいいんじゃないか?」
「いや、あの人のは作品製作用だからガチすぎるだろ。ちょっと撮るだけだから、もっと手軽な小さい奴がいいんだけど」
いくら小型化しているとはいえ、蒔苗のベッドルームにはビデオカメラを隠すほどの死角はなかったはずだ。アカリが食い下がると、蒔苗は翌日家からコンパクトデジカメを持ってきた。手のひらサイズのそれは大手メーカーの最高級機種で、動画の撮影時間にも制限はない。容量の大きなSDカードを挿せばバッテリー次第ではあるが軽く一時間はいけるだろう。
「……ところでさ、薬と酒一緒に飲むのはなしって約束してくれるんなら、二度目、やってもいいよ。来週までにシンガポールの件決めなきゃいけないから、やっぱり金が必要でさ」
「ほ、本当か?」
お、珍しく蒔苗がどもった。そうかそうか、俺とやれるのがそんなに嬉しいか。アカリは簡単にいい気になる。しかも自らのセックスが撮影されてしまうとも知らずのんきにアカリにデジカメを貸し出している蒔苗の間抜けさも面白くてしかたない。アカリは上機嫌で日曜の約束を取り交わした。
そして週末の約束を前にした金曜午後。アカリはゼミ室で原書講読の課題を片付けていた。
「『Curiosity killed the cat』、なんだこれ?」
見慣れないフレーズに首をかしげる。今日は四限の講義が講師の急病で急遽休講になった。五限に別の授業をいれているので帰ってしまうわけにもいかず、この隙に面倒なことを済ませてしまおうとゼミ室で課題に向き合うことにしたが、実のところアカリは英語は得意ではない。
「好奇心が、猫を殺した?」
直訳すればそうなるが、意味がまったくわからない。前後の文脈と見比べうんうんうなっていると、マークが横からテキストをのぞき込んできた。こういうときに身近に英語ネイティヴの留学生がいてくれるのはありがたい。
「ことわざだよ。日本語では『好奇心は猫をも殺す』かな。聞いたことない?」
「そのまんまじゃん。で、どういう意味ですか?」
おそらく英語特有の言い回しなのだろう。聞き慣れない言葉にぴんとこないアカリに、マークは丁寧に説明してくれた。
「猫には命が九つあるって言われているんだよ。そんなにたくさん命がある猫でも、好奇心に駆られて危険なことをやったら死んでしまうことがあるっていう意味。要するに好奇心を持ちすぎるのは危ないってこと」
「ふうん……」
――好奇心は猫をも殺す。
アカリはやがて、その意味を嫌というほど身をもって思い知ることになる。