20. ここから先、危険

 蒔苗はそっとアカリの頰に、閉じた瞼に、それから額に口付けた。外国の映画で親が子供にしてやる「おやすみのキス」のような、軽くて優しく、けれど愛しさのこもったキス。

 ――なんだ、これ?

 アカリは身を乗り出してノートパソコンの画面を凝視する。そして、アカリが見つめる中で蒔苗は、耳に、首に、鎖骨に、次々とキスの雨を降らせていった。

 ぐったりした体に縄張りを主張でもしているかのように点々とキスを落としてからようやく満足がいったのか、唇は触れるか触れないか、かする程度の距離でアカリの肌の上を滑りはじめる。骨ばった肩から上腕を辿り、肘をくすぐってから今度は指先を目指す。同じ道筋を同じくらいの丁寧さで戻り、鎖骨にたどり着くと今度は反対腕に。見ていてじれったくなるくらいの――アカリはこんなキスを知らない。

 まるで触れることを恐れるように。神々しい何かに、壊れそうに脆い何かに、愛おしくてたまらない何かに触れるように。

 初めてのときからアカリにとってキスはセックスの一部、セックスそのもので、粘膜同士を触れ合い直接的に性感を高め合うためのものだった。そして、即物的に求めあうことこそが欲情で、セックスだと思っていた。だが、蒔苗がアカリにしようとしているこれは、アカリの知るセックスとは何か別のものだ。

 まるで触れることをためらっているように。それでもこらえきれず神々しい何かに、壊れそうに脆い何かに、愛おしくてたまらない何かに触れるように。

 蒔苗の唇を、唇が触れた後をそっと追いかける指先を、そのときアカリは初めて怖いと思った。

 この先は、本当に危険だ。「死体のふりしてセックス」だって十分危険な遊びだが、ここから先には本当にもっと危ない何かがあって、それを見たらきっと自分は引き返せなくなるだろう。わかっていたがアカリは動画を止めることも、画面から目を離すこともできない。

 儀式じみたじれったい愛撫は長いこと続き、一見して気づかない程度にじわじわと情熱的なものへと変わっていった。軽く触れるだけだったキスは、唇を強く押しつけるものになり、やがて蒔苗の口からちらちらと卑猥にのぞく赤い舌が、アカリの日に焼けていない肌に濡れた跡を残しはじめる。

 食い入るようにノートパソコンの画面に見入りながら、アカリは自分の体がじわじわと熱くなるのを感じていた。そしてそれが決して、たった一本の缶ビールのせいなどではないことはわかっている。

 画面の中のアカリは深く眠っているせいか、普段ならば弱いはずの場所に触れられキスされてもぴくりとも反応しない。蒔苗の薄い唇が乳首をくすぐり吸い上げても身じろぎひとつせず、普段のセックスでのみっともないほどの敏感さが嘘のように股間のペニスも力を失ったままだ。

 しかし、一切の反応も手応えもない、普通に考えれば触れてもまったく楽しくないであろう相手に蒔苗は次第に興奮をあらわにし、そしてその蒔苗の姿を画面越しに眺めて今アカリの体は熱を持ちはじめていた。

 蒔苗は抵抗しない体を次第に激しく、欲望のままに蹂躙しはじめる。淡々としていたはずの男の目には、いつのまにか見たことのないような怪しく危険な情欲の光が満ちていた。

 そして、蒔苗はとうとう牙を剥いた。

 激しくアカリの体に触れ、吸い付き、ときに歯を立てる。蒔苗は飢えて乾いた獣で、まるでその苦痛を癒すことができるのがアカリの体だけであるかのように一切の反応を返さない体を激しく求めて触れる。

 やがて焦れた手は下半身にも伸ばされた。アカリの脚を開き、膝を立てさせる。もちろん熟睡している体はされるがままで、蒔苗にされるがままに卑猥な場所を見せつけるポーズを取る。カメラのアングルのせいでよく見えないが、蒔苗はアカリの腰ごと持ち上げ、指でそこを開くとじっくりそこを眺めているようだった。そして、存分に眺めた後で迷いなく顔を寄せた。

 あの蒔苗の唇が、舌が、自分のそこに――。アカリの顔は火がついたように熱くなり、それと同時に一気に腰に血液が集まるのを感じた。そして、画面の中の蒔苗がズボンの前をくつろげ、硬くそそり立ったペニスを取り出すのを見て、どうしようもなく腰が疼きだす。

 蒔苗はぐったりとしたアカリの腰を抱えると、一気に貫いた。そして、そのまま激しく腰を使いながら、与えられる動きに合わせて壊れた人形のようにただがくがくと揺れるアカリの体を掻き抱いた。

「なんだよ、これ……」

 触れることも恐れるかのようにおそるおそるキスをしたかと思えば、焦れて豹変する。もちろん本人は死体を相手にしているつもりなので当然なのだが、相手の反応など一切気にせずただ貪り尽くす。

 蒔苗のセックスはめちゃくちゃだ。

 アカリにとってセックスは、気軽な楽しみだった。もちろん性欲が絡む以上、多少の胸のときめきを伴わないわけでもないが、そもそもが恋愛を前提としていない関係だから、例えるならばゲームやスポーツの延長のような割り切った快楽であるともいえた。

 キスをすれば気持ちいい。肌や性器に触れれば気持ちいい。もちろん後ろを使えばとろけるような快感を味わうことができる。でも、それだけだった。

 出会いは基本的に出会い系のサイトやアプリを通したものだから、一期一会の他人同士の関係には遠慮や気遣いだって必要だ。アカリがこれまで寝てきた相手は基本的に誰もが優しく紳士的で、「限られた時間の中で常識的にお互い後腐れなく楽しむ」ための努力は惜しまなかった。効率的に互いの性欲を高め合い、効率的に挿入し、出す。それは、気軽な相手を求めるアカリにとっても、まさしく理想的なセックスであるはずだった。

 でも。だったら今、どうして俺はこんなに興奮しているんだろう――。

 画面の中で獣のようにアカリの体を貪る蒔苗と、死んだようにただされるがままになっている自分。不気味でグロテスクな映像を見ながら、アカリはとうとう我慢できなくなり、痛いほど張り詰めた自分の股間に手を伸ばした。