21. 指先から火花

 翌朝、アカリは寝不足のぼんやりした頭を抱えて大学へ向かった。前の晩はうきうきで動画を観はじめて、そして……。

「おい、明里」

「うわああああああっ!」

「なんだ、大げさに」

 顔を上げると、そこには蒔苗がいた。

「なんだよ、びっくりするだろ。急に話しかけるな!」

「普通に正面からやってきてそんなに驚かれるとは思わないだろ」

 確かにそれはそうだ。突然生えてくるはずもないので歩いて近づいてきたのだろうが、考えごとにふけっていたアカリがそれに気づかなかったのだ。

「デジカメ、ちゃんと動いたか?」

 かっと顔が熱くなる。もちろんアカリがあのデジカメを何に使ったかなんて、蒔苗が知っているはずもないのだが、ちょうど考えていた内容が内容だけに、まるで図星を突かれたようにアカリは恥ずかしくなる。

 アカリはちらりと顔を上げて、蒔苗を見る。いつもどおりの能面のような感情のわかりづらい顔。長めの前髪からのぞく瞳、薄い唇。そうだ、あの目が獣みたいに情熱的になって、あの唇が――。ダメだ、蒔苗の顔をまともに見ることができない!

「あ、あ、あ、ありがと。ちゃんと動いたから。普通に。返す。助かった」

 妙に気まずくて照れくさくて、居心地が悪い。アカリは慌ててカバンから借りていたデジタルカメラを取り出すと、差し出した。受け取ろうとする蒔苗と意図せず指先が触れ、まるでドアノブに触れて静電気がバチっといったときのように、アカリは慌てて手を引っ込める。

 なんだこれ。なんだこれ。なんだこれ。

「あーっ! 俺、提出遅れてるレポートあったんだった。急いで持って行かなきゃ。じゃあな蒔苗」

「……明里?」

 それ以上同じ場にいるのも気まずくて、アカリは走って逃げた。蒔苗は昨日までと何ひとつ変わっていない。でも、あの動画を観てしまったアカリは、昨日までの同じように蒔苗を見ることはできない。

 えっと、なんなんだこれは。激しく鼓動を打つ胸を押さえながらアカリは改めて自問自答する。

 俺は男にしか関心を持てないゲイ。で、蒔苗は死体にしか欲情しない性癖の持ち主で、死体でさえあれば男女の別は関係ないからと男の俺を眠らせてセックスしてる変態で。さらに、俺を死体に見立ててセックスしている蒔苗を見て俺は激しく興奮して、我慢できずに自慰行為をしてしまったわけで。

 ――あれ、もしかして、俺の方が蒔苗より変?

 大学は慌ただしく前期末の試験期間に入り、試験が終われば学生たちにとっては待ち望んだ夏休みに入る。そして、倉橋ゼミの夏休みはシンガポール合宿で幕を開けた。というのも、指導教員である倉橋は毎年八月を丸々海外研究に出かけてしまうので、学生たちの相手はその前に済ませてしまうのだ。

 そして、試験がはじまり終わり、合宿がはじまり終わるまで、アカリはひたすら憂鬱だった。もちろん原因は蒔苗だ。

 以前から別に、蒔苗に会っても嬉しくもなんともなかった。出会ったときは「危険なのぞき魔」で、その後もせいぜい「危険な変態」にクラスチェンジした程度だ。しかし、今では自分こそがその蒔苗を前にすると性的な目で見て動揺してしまう、変態カーストのさらに上位に位置する変態になってしまった。

 あの何を考えているかわからない能面のような顔も、長い前髪の隙間からのぞく、ちょっと爬虫類じみた切れ長の目も、考えごとをするときにはきゅっと引き結ばれる薄い唇も――今ではなんと、目にすると、あの動画の中での蒔苗の痴態を思い出して妙に胸が騒いでしまうのだ。もちろんアカリはそんな自分が怖くて気持ち悪くてたまらない。

 正直、危険で嫌な奴でいてくれる方がよっぽどましだった。会いたくないわけではないのだが、会ったら気まずくて何を話せばいいのかわからなくて、アカリはひたすら蒔苗を避け続けた。

 試験期間はそもそも顔を合わせる機会が少なかったので楽だった。それでも毎日一回はどこかしらで出くわしたが、そのたびアカリは試験勉強で忙しいふりをした。問題はシンガポール合宿だったが、こっちはグループワーク中心だったのに救われた。日本人学生は三年生と四年生がセットになって、シンガポール学生と組むことになっていたので、アカリは蒔苗とはほとんど別行動になったのだ。

 アカリは高梨と、蒔苗は野田と相沢と三人組。そして百合子がマークと組んで、あとは食事会や観光の時間を除いては、それぞれのチームごとにばらばらに動くことがほとんどだった。アカリにとっては初めての海外で、初めての海外学生との合同作業。楽しく刺激的な一週間はあっという間に過ぎ去ってしまった。

 だが、その間にも蒔苗と一緒になる機会があれば、あのどうしようもない居心地の悪さに襲われた。そして、アカリは何度か夜寝る前にあの動画のことを思い出して、自分を慰めた。