帰国すればもう八月。試験と合宿でアルバイトに入れない日々が続いたので、後期の授業料納入に向けてここからがアカリにとっては稼ぎどきになる。指導教員である倉橋がいないので八月いっぱいはゼミも休み、もちろん自主研究があるので自由にゼミ室や設備は使えるが、毎日大学に行く必要はない。
アカリは正直ほっとしていた。なぜなら、これでしばらく蒔苗の顔を見ないですむからだ。合宿代という予想外の大きな出費があったのでうっかり誘いに乗ってしまったが、これからは普段のバイトで地道に稼げば、もう蒔苗からの危険な誘いに乗る必要もない。
頭を冷やさないといけない。アブノーマルな行為にちょっと頭が混乱しているだけなのだ。そうじゃなきゃ、あんな奴相手にドキドキしたり、興奮したりするはずがない。あいつときたらスプラッタマニアの変わり者で友達の一人もいない。顔も体も、悪くはないが普通だし、性格に至っては癖だらけで全然アカリの趣味ではない。そもそもアカリは身近な人間に惹かれたりなんてしない。
少し蒔苗と距離を置いて、一ヶ月も経てばあの動画のことも忘れて元どおりの関係に戻れるはずだった。しかし、一週間も経つと、同じゼミになって以降毎日のように顔を合わせていた蒔苗を見ない生活にアカリは寂しさに似た感情を持つようになった。
いや、これは断じて寂しさなんかじゃない。餌付けして懐きはじめた動物を見かけなくなったときのような、そこはかとない気がかりだ。そういえばあいつ大学がないとき何やってるんだろう。家にこもってあの膨大なライブラリからスプラッタ映画でも観まくってるのかな。で、外に出ないからまともなものも食わず毎日ピザばっかり食って……。気づけば蒔苗のことばかり考えてしまう。
友達がいないだけあって、蒔苗は用事があるとき以外に連絡をしてくることはない。音信不通の日々が続けばそれはそれで不満で、アカリは日に何度かスマホに蒔苗の連絡先を表示させては恨みがましく眺めた。
「ったく、セックスしなきゃ用無しかよ。たまには連絡くらいしてこいっつーの」
と、その心の声が届いたかのように、手の中のスマホが震える。アカリは慌てて画面をのぞき込むが、表示されているメッセージは蒔苗からではなく、滝百合子からのものだった。
「アカリ、一週間ぶり。元気だった~?」
「うん。ゆりっぺは?」
「元気元気。でもさ、ちょっとシンガポールから戻ってきてから悩みがあって。色々考えたんだけどアカリしか相談できる人いなくて」
百合子はアカリを大学近くのカフェに呼び出した。そして、アカリは百合子が「相談」と言い出した瞬間から嫌な予感がしていた。
アカリは昔からなぜか、異性から相談を受けることが多い。一見人当たりが良いので話しやすい、というのが彼女らが口をそろえるところだがアカリは内心穏やかではない。なぜなら受ける相談のほとんどが恋愛ネタだからだ。
そう、アカリは不安なのだ。自分では完璧に同性愛者であることを隠して生きているつもりでいるけれど、もしかして彼女たちは敏感にアカリが男を恋愛対象にしていることを嗅ぎわけて、だからこそ半分お仲間だと思って恋愛相談をしてくるんじゃないだろうか。
――だって彼氏側の気持ちって言われても、俺全然わかんねえもん。
しかも出会い系を通じての「一夜の関係」を除いてまともな恋愛経験もないのだから、恋の相談の相手としては最低最悪の人材に間違いない。だが、後ろめたいところがあるだけにアカリは普通を装おうと女子たちの愚痴や相談に必要以上に熱心に付き合い、結果「頼りになる相談相手」としての株はどんどん上がっていく。悪循環だった。
案の定、注文の品が揃った頃に百合子が切り出したのは恋愛相談だった。
「実は、わたし最近気になる人ができて。なんか好きになりそうっていうか、なっちゃった気がするんだけど、どうしようかなって」
「え、ゆりっぺ、そういうとこで悩むタイプだっけ? 好きになったら猪突猛進って感じかと思ってた」
どうするもこうするも付き合いたいなら押すしかないだろと思うが、女子というのは単刀直入に物を言われるのを好まない。半分は独演会だと思って相槌を打ちながら、百合子のやりたいようにさせる方向に持っていくしかない。
「まあ基本はそうなんだけど、でも今回は相手が身近な人だし。しばらくは顔をあわせる機会が多いから、振られて気まずくなるのが怖いんだよね」
百合子は悩ましげなため息を吐く。
――身近で、顔を合わせる機会が多いだと? アカリの脳裏に蒔苗の顔が浮かぶ。同じゼミだから身近で、卒業までは頻繁に顔をあわせることになる。確かに振られたら気まずくなるだろう。
ていうか、待て待て。普通に明るく社交的で、普通に可愛い女子大生があんな地味非常識変態ポンコツ男に恋に落ちるわけはあるまい。あれ、でもゆりっぺはサブカル好き女子大生だから万が一にもああいうマニアックなタイプが好みということもありうるのか? なんだかそれは、すごく嫌だ。
あ、でもあいつは死んだ人間にしか興味がないから、万一ゆりっぺが蒔苗のことが好きでも、蒔苗は決してゆりっぺを好きにはならない。そうそう、だから大丈夫。そこまで思考を巡らせて、アカリは凍りつく。
あれ、今、俺、ホッとした? 大丈夫って、何が? 何で?
凍りついたままのアカリは、百合子の声で現実に呼び戻される。アカリがぐるぐると考えごとをしている間も百合子は女子トーク特有の「相手の反応は気にしない」モードを発動して、思いの丈を語り続けていた。普段は人の話をよく聞く百合子ですら恋を前にするとこうなってしまうのだ。
「そうなのよね、恋ってするものじゃなく落ちるものなのよ!」
百合子は力強く言った。アカリはぱちぱちと目を瞬かせる。
「落ちるもの?」
「そうよ~。シンガポールでアテンドしてくれるマークさん、かっこよかった。英語も中国語もペラッペラだし、あれで一気に落っこちちゃったわ。普通は距離の近すぎる相手は避けるんだけど、好きになっちゃったものはしょうがないよね。マークさんって彼女いるのかな。ねえアカリ知ってる?」
アカリはもはや聞いてはいない。いや、正確には百合子が恋に落ちた相手が蒔苗でなくマークであることだけは聞いていた。そして密かにほっと胸をなで下ろしていた。
「……恋は、落ちるもの」
もう一度口の中で繰り返しながら、アカリは再び激しい動揺に襲われる。
待て、もしや、これは。百合子が蒔苗を好きになってしまったかもしれないと思ったときに感じた不安と、そうではないとわかったときの安堵。これは。
「ちょっとアカリ、聞いてるの? マークさんって彼女いるのかな。ねえ、アカリってば」
いくら呼びかけられたところで、この日、百合子の言葉がアカリの耳に届くことはなかった。