えー、人生には三つの坂がありまして。上り坂、下り坂、そして。
――まさか。
そう、そのまさかだ。
アカリは狭いパイプベッドの上でゴロゴロと転げまわり、最終的にベッドから安っぽい合板フローリングの床に落下した。一階にある部屋のいいところは、家賃が安いことだけでなく多少音を立てたところで階下から文句を言われないことだとしみじみ思う。
ひんやりしたフローリングが気持ちいい。アカリはそのまま床に大の字になった。そして、昨日百合子と会って以来、頭から離れなくなった問題について再び考えはじめる。
「俺が、蒔苗に、恋?」
試しに口に出してみたものの、真っ赤になって慌てる。
「いや、今のなし、なし。取り消し」
誰も聞いてはいないのにわざわざそんなことを言ってしまうのは、口に出したことで一気に「恋」という単語が現実感と重みを持ちはじめてしまうからだ。火照った顔をどうにかしようと、ごろんと床で身を転がして熱い頬を床にくっつける
恋愛なんて遠いものだと思っていた。一般的ではない性志向を持ってしまった時点で普通の恋愛はあきらめるべきものなのだと決めてかかっていた。もちろんお仲間にはアカリのような悲観主義者ばかりではなく、異性愛者の人々同様に恋愛を楽しむタイプも多くいるだろう。でも、小心者のアカリには社会的に異端扱いされるリスクを犯してまで恋をする気はなかった。
それに、恋をしなければ別れることもない。愛情を注いで育ててくれた母親には感謝しているが、親戚が「大恋愛の末って感じだったのに、わからないもんねえ」とシングルマザーになった母親について影で話しているのを聞いて以来、恋愛とは儚いものだという固定観念がアカリの頭には刷り込まれてしまっていたのかもしれない。
いくら好きになっても、何らかの理由で壊れてしまうのは悲しい。それが必ずしも「お互い嫌になって」じゃなくて、片方の気持ちが残っているのに別れざるを得ないことだってあるのだからなおさら悲しい。子どものような考えだが、人を好きになるなら完全に幸せになって病める時も健やかなる時もというか、二人仲良く共白髪というか――。
「いやいや、それ以前の問題だろ」
仮に。仮に、アカリが蒔苗を好きになったとしてその先は? アカリはあくまで「仮定」でシミュレーションしてみる。
蒔苗には友達はいないし、変態だから他から粉をかけられる心配は薄い。そして、あいつ自身も生きている人間には欲情できないと明言するくらいだから浮気の心配はない。で、俺とはすでに肉体関係があって、しかもそれはあいつが熱烈に求めてきたものなんだから、すでに蒔苗も俺のことは憎からず思っているはずで。
「あれ? 何だ、これってもしかして、けっこういい感じなのか?」
アカリはがばっと体を起こす。もしかして既に蒔苗からアカリに対しては恋愛フラグが立ってたのか? 思わず頰がにやけそうになるが、しかし何か納得がいかない。とても重要なポイントを忘れているような気がする。
そして、ひどく当たり前のことにようやく気づく。
「あいつが欲しがってるのって……『俺』じゃないよな」
口に出すと胸からみぞおちにかけてぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
蒔苗が「セックスをさせてくれ」と頭を下げてきたのも、愛おしいものに触れるようにキスの雨を降らせたのも、獲物を前にした獣のような情熱的な眼差しでひたすら貪っていたのも――相手はアカリだけど、アカリではない。
アカリは気づいてしまった。蒔苗は、睡眠薬で意識を失った「死体としてのアカリ」にしか興味がないのだ。
「ちょっと待てよ。ってことは、俺がもし蒔苗のこと好きになったとして、でもあいつが好きになるとしたらそれは『死体役』のときの俺限定ってことで。それって」
なんせ蒔苗は生きている人間に欲情できないどころか、コスプレ風俗で死体のふりをした女の子が我慢できず身動きしたり、アカリが野外で別の男とセックスしているところを見ながら「もし相手が自分だったら」と想像したり、それだけで気分が悪くなってゲロを吐くような男なのだ。
要するに、アカリの恋心は決して報われない。いや、正確に言えばアカリの恋心は「アカリが死なない限り」決して報われない。しかもその場合、既に死んでしまっているアカリは蒔苗に愛されていることを知りようもないので、結局のところはアカリの恋が成就することは未来永劫あり得ないのだ。
「いやいやいや、ないだろ。こんな無理ゲー」
アカリは再び床板に倒れこんだ。