図書館に本を返すため一週間ぶりに大学に行き、ついでにゼミ室に寄ろうと構内を歩いていると、ちょうど百合子と出くわした。
「あれ、アカリ久しぶり!」
百合子は妙に楽しそうでつやつやしている。一方のアカリは、もはやしおしおでこのまま枯れて朽ちてしまいそうな気分だ。
「あれ、なんかアカリ元気ないね」
「バイト忙しくてさ、ちょっと夏バテかも」
休んだ遅れを取り戻す分シフトに入りまくっているのは事実だし、夏バテ気味なのも嘘ではない。だが、アカリの不調はそれだけではない。アカリはここのところ、毎日眠れないほど悩んでいた。その元凶は――。
「明里、痩せたか?」
「だからバイトと夏バテ……って、蒔苗っ!」
突然、不調の元凶がぬっと現れる。百合子の話に適当に相槌を打ちながら歩いているうちに、いつの間にかゼミの部屋に着いていたことに気づかなかった。勢い余って近づいた顔に驚いたアカリは慌てて身を引くが、心臓がばくばくするのに堪えきれずその場にしゃがみ込む。
「おい、本当に具合悪そうだな」
「や、外が暑かったから立ちくらみが……」
ダメだ、前よりも挙動不審が悪化している。これももしかしたら、ちょっと蒔苗のこと好きなのかも? と意識してしまったせいなのだろうか。もしかしたら好きかも。三十パーセントくらいは好きかも。いや、それじゃさすがに低いか。五十パーセント……うーん、もうちょっと?
「七十……は、八十……? も、もう一声か」
「何ぶつぶつ言ってるんだ。まさか、熱射病かなんかじゃないだろうな」
「ひゃああっ!」
首筋に冷たいものを押し付けられて、思わず叫び声を上げる。さらにそれはつるりと滑ってTシャツの首元から背中に入り込む。
「ぎゃあああっ!」
冷たく濡れたものが背骨に沿って滑り降りて、ぞわぞわっと、快感と不快感がないまぜになった感覚に襲われる。思わず変な声を上げそうになるが、すんでのところでアカリの理性は声帯に「ただの叫び声」を出すよう指令を与えてくれた。
腰まで滑って、それはシャツの裾からコロンと床に落ちる。手をやると、夏場に生ものを買ったときなどにもらえる保冷剤を凍らせたものだった。ゼミの冷凍庫に誰かが放り込んだ保冷剤がいくつも転がっていたので、そのひとつだろう。
「なんだ、元気じゃないか」
「おまえっ、驚かせるな。びっくりして死んだらどうすんだ!」
猛抗議しながらも、アカリは本心から怒っているわけではない。少し前ならば嫌味だ嫌がらせだと怒り狂っていたところだが、人の心とは不思議なもので、今は乱暴に与えられた言葉や保冷剤にすらドキドキしてしまう。
――だ、ダメだ。こんなんじゃ精神が持たない。
アカリは蒔苗に背を向けて十回ほど大きく深呼吸をした。
「蒔苗くん何してんの? あ、これ合宿の写真じゃん」
アカリの挙動不審に気づかず話をそらしてくれる百合子の存在が今は心底ありがたい。百合子がのぞき込んだのはゼミ共用の、とはいえ部屋にはほぼ人数分の机が準備されているので、今はもっぱら蒔苗が使っているパソコンだ。
パソコン自体はほぼすべての学生が所有しているが、ゼミのものは大きなディスプレイを備えた高級機だ。しかも画像編集ソフトやDTPソフトなど、メディアやアートを学ぶ学生にとっては喉から手が出るほど欲しいものの値段の関係からなかなか手が出ないソフトウェアがふんだんにインストールされているので、複雑な作業をするときには大学に来た方が効率がいい。
「合宿の概要と写真まとめるように倉橋先生に言われたから。ここのPCの方がでかくてやりやすいし」
「えっ?」
蒔苗の答えにアカリは驚いて振り返る。倉橋ゼミの夏の合宿の概要と写真が毎年きれいに冊子にまとめられているのは知っている。電子版は新入生勧誘のためにホームページにも掲載されるから、ここ数年の分はアカリも見たことがある。でも、それを作れという話など自分は倉橋から一言も聞いていない。
「何それ、蒔苗一人でやれって言われたの?」
「いや、毎年三年生がやってるから頼むとしか。でも滝は帰省するって聞いてたし、おまえはどうせバイトで忙しいだろうから……」
「そういうの、相談もなしに勝手に決めるなよ」
あ、しまった。蒔苗は蒔苗なりに気を使ってくれたというのに。一人でやらせて申し訳ないという気持ちと相談もなしに作業を進められる不快さが混ざって、思わず感じの悪い言い方になってしまった。アカリは慌てて言い直す。
「え、あ、あの。一人でやらせるの悪いし、いろいろと勉強にもなりそうだから、俺も手伝うよ?」
「あー、わたしもやるよ。紙面レイアウトやってみたかったんだ」
百合子も声を上げ、おかげで空気は険悪にならずにすんだ。蒔苗も、どうしても一人でやりたいというわけでもなかったようで、結局それから三人で相談し、新たな作業分担を決めた。