蒔苗と次に会う機会は思ったより早く巡ってきた――というのは正確ではない。悩んで悩んで結局アカリの方から約束を取り付けたのだ。
「あのさ、蒔苗って普段なにやってんの?」
自分から初めてかけた電話では、第一声でみっともなく声がひっくり返った。
「何って、別に。本読んだり、DVD観たり……」
突然の電話に驚くわけでもなく、愛嬌を見せるわけでもなく、相変わらず反応の薄い相手だ。しかし拒否されないのであれば、とりあえず押す! アカリは百合子の成功体験を忠実になぞってみることにした。
「やっぱり蒔苗ってインドア派なんだな。たまにはどっか出かけたいと思わないの?」
「全然」
「……でも、大学と家だけじゃうんざりしない?」
「こんな暑い中、用事もないのに出かけて疲れる必要もないだろ」
だが、やはり蒔苗は蒔苗。取りつくしまもない。
これではデート……というか二人でどこかに出かけようにも一切誘いに乗ってもらえる気はしない。しばらく不毛なやりとりを続けた挙句、アカリはようやく蒔苗と二人で会うための口実を見つけた。
「あのさ、冷房代もったいないから、お前んとこに涼みに行ってもいい?」
禁断の貧乏ネタ。アカリの家計が楽でないことはすでに蒔苗には知られていて、それどころか夏の合宿費を作るためにセックスまでさせた仲だ。それでも、蒔苗がただの取引相手だったときと気を引きたくてたまらない恋愛対象である今では、当のアカリの気持ちが全然違う。こんな理由しかひねり出せないことが内心情けなくて仕方なかったが、蒔苗は意外にもすんなり「そういうことなら」とアカリの来訪を承諾したのだった。
「おじゃましまーす」
アカリは蒔苗の家に上がるのに、三度目にして初めてまともに挨拶をした。そして三度目にして初めて脱いだ靴を自ら揃え、三度目にして初めて手土産というものを持参したのだった。いや、こういうのはもしかしたら手土産とは呼ばないのかもしれないが。
「何これ?」
「え、昼飯一緒に食おうと思って。どうせ宅配ピザばっか食ってんだろ」
ダイニングテーブルにどさっと置かれたスーパーマーケットの袋に蒔苗は驚いた表情を見せた。実際、食品でいっぱいの大きな白いビニール袋は生活感のかけらもない蒔苗の部屋の雰囲気とは一切フィットしていない。
でも、それこそが狙いなんだよ。アカリは内心でほくそ笑んだ。
情けない話だが、アカリは蒔苗を誘う前にネット上の恋愛マニュアル的なものを読み漁った。もちろん「初めてのデートは水族館」「花火大会の人混みでさりげなく手を繋ぐ」作戦あたりは異様に出不精な蒔苗のせいで発動するまでもなくボツになったし、「夜景の見えるホテルのレストラン」はアカリの乏しい懐では無理がある。
しかし、あったのだ。様々なマニュアルに共通して「好感度アップに効果大」と書かれていて、その上たいした金もかからない方法が。その名も「胃袋と一緒にハートもつかんじゃえ作戦」。要するに手料理を振る舞うという定番のアレである。
「明里、料理なんかするのか?」
案の定、蒔苗は食いついてきた。珍しく興味深そうに袋の中の食材をのぞき込んでいるのを見てアカリは作戦の成功を予感する。
「貧乏学生だから、まあちょっとは」
見栄を張ってはみるものの、実のところは本当に「ちょっと」しか料理はしない。昼は大学の学食で食べることが多いし、夜はたいていファミレスの休憩中に社員割引ですませる。ネットのレシピサイトで「簡単にできて凝った風に見える料理」を検索しまくったもののやはりどれも初心者のアカリにはレベルが高そうで、結局のところ……。
「キャベツ、豚肉、紅生姜、中華麺……」
「焼きそば、嫌いじゃないだろ?」
「ああ」
特に感動したわけでもなさそうな蒔苗に、アカリは内心がっかりしながら材料を取り出しはじめる。一切の材料のなさそうなここで料理をするために油から買ってきたおかげで荷物はとんでもなく重かったのに。キャベツやもやしが入ってるだけピザよりは栄養的にもましなはずなのに。せっかく昼飯作ってやるって言ってるんだから、もうちょっと嬉しそうな顔してもいいんじゃないか?
腹の奥では落胆と苛立ちが渦巻くが、ここであきらめるのは早すぎる。もしかしたら出来上がった焼きそばを食べたら蒔苗も感動して――。
「いてっ」
左手に痛みが走り、はっと目をやると指先から血が出ていた。考えごとをしながらキャベツを切っていたせいで、包丁でざっくりいってしまったらしい。指先からじわじわと赤い血が滲み出す。
「うわっ、切った! 指切った!」
慣れない切り傷に慌てたアカリが大きな声をあげると、背後から蒔苗がぬっと現れた。
「どうした?」
「包丁でちょっと指切っちゃって。絆創膏ある?」
偉そうに「昼飯作ってやる」と言った手前、早くも怪我をしてしまったアカリは体裁が悪く、怪我した左指を右手で押さえて蒔苗から隠そうとする。しかし蒔苗は強い力でアカリの左腕をつかみ、じっと傷跡を見つめた。
「蒔苗何やってんの。早く絆創こ……っ」
アカリはそこで言葉を失う。蒔苗はなんと血を流すアカリの指を迷いなく引き寄せ、そのまま口に含んだ。
「――っ!!!」
チュッと音を立ててアカリの指を吸う蒔苗の目には少しだけ、アカリを狂わせたあの怪しい光が灯っているような気がした。