31. 甘い水

 どうしようもない渇きに、勢いに任せて「セックスがしたい」と迫る……というか懇願してみたものの、返ってきたのは実に中途半端な回答だった。

「手伝うくらいなら?」

「ああ。手伝うくらいなら。だって自分の手じゃダメなんだろ」

 再確認して、もう一度蒔苗の返事を噛みしめる。

 アカリは夢精してしまうほど欲求不満で、自分の手で抜くくらいではとても治らないのだと訴えた。それに対しての答えは「手伝うくらいなら」の条件つきイエス。果たしてこれはアカリの望む答えなのだろうか?

 蒔苗は背中にアカリをくっつけたままずるずるとキッチンまで歩く。そして冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルをアカリの手の甲にぺたりと押しつけた。

「……冷たい」

「とりあえず、ちょっと飲めば? 水」

「うん」

 アカリはようやく蒔苗の背中から剥がれると、ボトルのキャップをひねった。プシュッと炭酸が抜ける音がする。

 あれ? と思う。アカリはガス入りの水が好きでここに来るときもたびたび持ちこんでいたが、買い置き分はこの間すべて飲みきっていたはず。蒔苗は「甘くない炭酸って意味がわからない」と言っていたから自身のために買うわけはない。

「これ、俺のために買っといてくれたの?」

「ちょうどトイレットペーパーを買い足そうと思ったら、通販サイトのタイムセールに出ていたから」

 照れ隠しというよりは、ただ淡々と事実を述べているだけといった調子だが、それでもアカリはちょっと嬉しくなった。ただのガス入りミネラルウォーターが甘ったるく感じてしまうくらい嬉しかった。

 が、今はそんな女子中学生の初恋みたいなことを考えている場合ではない。問題はセックスもしくはその代替行為についてだ。アカリはソファーに座り、自分の隣をばんばんと手で叩き蒔苗に座るよう促す。そして言われるがままに腰を下ろした蒔苗にずいと顔を寄せ、言った。

「蒔苗くん、さっきのお話の詳細を伺ってもよろしいでしょうか。具体的に『手伝う』とは一体何を指すのかを、できればもう少し詳しく」

 蒔苗は思案顔。もしかしたらさっきのあれは、自分でもはっきりとしたイメージがないままの苦し紛れの返答だったのだろうか。そして長い沈黙にアカリが苛立ちはじめる寸前でようやく口を開いた。

「手を使うことくらいならできるかも」

「キスとか、挿れるのは?」

 アカリがぐいと身を乗り出してあからさまな質問をすると、蒔苗は小さく首を振った。

「キスは吐きそうになったことがあるから難しいな。挿れるのは、起きて動いてる状態相手じゃ勃たないし、やっぱり気持ち悪くなる。もちろん寝ててくれれば別だけど」

「寝たままヤられるのは、俺が満足できないからダメ!」

「まあ、とりあえずやってみるとしか。触るだけなら大丈夫そうな気がするけど、自分でもどこが境界かは実はよくわかってない」

 なんだか妙な展開になってきた。そもそもアカリは蒔苗と愛のあるセックスがしたくて、それが無理ならとりあえず愛がなくてもセックスがしたくてここに来た。しかし特殊性癖持ちの蒔苗は普段のアカリ相手では勃起しないし気持ち悪くなるから――。

 人並みのプライドがあれば「そんなんじゃ嫌!」と言えるのだろうか、アカリはちらりと考える。だって、愛がなくてもいい、最後までしてもらえないなら触るだけでもいい、なんて普通に考えればすごく惨めだ。

 でも、惨めでも情けなくても、アカリは今、蒔苗に触って欲しい。万が一、本当に万が一だけれど、それで蒔苗がもし勃起したり少しでもアカリに欲望を感じてくれるようなことがあればこっちのものだ。逆に、やってはみたもののやっぱり触るのも無理だと言われてしまう可能性もあるけれど、そんな怖いことは今は考えない。

「いいよ、じゃあ手伝って。触って、いかせて」

 アカリは半分ほど飲んだペットボトルのキャップを閉めてローテーブルに置くと、勢いよくTシャツを脱ぎ捨てた。のんびりしていたら蒔苗の気が変わってしまうかもしれないし、これ以上酔いが覚めたら何より自分の側も怖気づいてしまいそうだった。続けて、靴下を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、少し迷ってからまだ下着は脱がないことにした。

「お前は脱がないの?」

「触るだけなんだから、必要ないだろ」

「そっか……」

 ちょっとがっかりするが、気にしないことにする。確かにセックスをするわけではないんだから蒔苗が脱ぐ必要はない。あくまでこれからやるのは「自慰行為を手伝ってもらう」だけ。キスを仕掛けたり、セックスに持ち込もうと欲を出したりすれば、約束が違うと言われてしまうかもしれない。そうでなくとも生きて反応する体を恐れる蒔苗がどこまでアカリに触れられるかは未知数なのだから。

「ある種の実験かな。おまえの『生きてる人間との接触ボーダー』がどこまでかを知るための」

 アカリはそうつぶやいて、ソファーに座る蒔苗の膝の間に体を割り込ませた。