35. 逢瀬と邪魔者

 夏の間に、アカリと蒔苗の関係は少しだけ変わった。

 アカリは再び蒔苗に体を任せるようになった。以前と違うのは、そこに金のやり取りが絡まないこと。代わりに、蒔苗もアカリの欲望を鎮めるのを手伝う。一応は対等なやり取りなはず、だ。

 特にどちらが言い出したわけでも、はっきりと約束しているわけでもないが、交互に相手の快楽に奉仕しあう関係はなし崩しにはじまり、秋になる頃にはすっかり板についてきた。

「うーん。前より健全なような、不健全なような……」

 アカリがぶつぶつと独り言を呟いていると、インターフォンが鳴る。立ち上がろうとするが、蒔苗に先を越された。

 今日は日曜。平日はアルバイトや学校の予定に左右されるので、特に会う日を決めてはいない。代わりに日曜についてはほとんど毎週のように、アカリは蒔苗のマンションを訪れる。もちろん、目的は死体の真似事だ。

 普通のセックスならまだしも、薬で眠って、しかも興奮すると噛んだり引っ掻いたり中で出したりしがちな男に好き放題させるのだから、蒔苗との行為はアカリにとって身体的な負担を伴う。普段授業やアルバイトで忙しくしているアカリが唯一朝ゆっくりできるのが、一限に講義を入れていない月曜日で、そうすると自然と蒔苗に体を任せるのは日曜の夜ということになる。

 玄関から戻ってきた蒔苗は宅配ピザの箱を手にしている。日曜晩の宅配ピザ。これもいつの間にやらアカリの日常になった。

 平日会うときは、アカリはアルバイト先で食事を済ませていることが多いし、そうでないときは食材を買ってきて簡単なものを作る。今では蒔苗の胃袋をつかもうなどという大それたことは考えていないが、アカリの真っ当な神経からすると宅配ピザは高すぎるし、栄養的にも偏っているし、何よりそればかりでは飽きてしまう。

 しかし日曜については、一日中引越しバイトで体を動かした後なので、買い物に寄る気力も、食事を作る気力もない。結局ピザが定番になってしまった。最近ではバイトを終えたアカリがマンションに向かう途中、スマホから店に注文を入れることにしている。これで冷めたピザも回避することができる。

「これ、何だ?」

 ピザの箱を開けた蒔苗に、アカリは注文内容を思い出しながら答える。

「えーっと、プルコギと照り焼きマヨチキンのハーフアンドハーフ」

「よくそんな変わり種ばっかり頼むな」

「えっ、定番だろ。それに一日肉体労働してきたんだから、がっつり食べたいんだよ」

 毎回バカの一つ覚えのようにペパロニを頼む奴に文句言われる筋合いはない、と思うが口にはしない。アカリは勝手知ったるキッチンのあちこちを開けて、皿やグラスを取り出しテーブルに並べながら、何とも言えない幸福感に包まれていた。

 もちろん、自分と蒔苗は恋愛関係にはない。でもこうやってしょっちゅう部屋を訪れて、一緒に食事して、抱き合うことのできる日々は、深く考えさえしなければそれなりに満足のいくものだ。特に、週末に体を動かした後で蒔苗と過ごす時間は大きな楽しみだった。

 ――しかも、最近じゃ薬飲んでやられるのも、そんなに嫌じゃないんだよな。

 これは自分でも意外なことだが、アカリは薬で眠ることを恐れなくなった。慣れるにつれて薬量や服薬タイミングがつかめるようになってきたこともある。だが、一番の理由はおそらく、蒔苗を信用するようになったことだ。

 興奮した蒔苗は多少引っ掻いたり、噛んだり、中出ししたりはするが、本当にアカリを傷つけるようなことはしない。回数を重ねるにつれて、アカリはそれを理解した。それに、実のところ行為の翌朝、体に残った引っかき傷や噛み跡を眺めるのは今となってはアカリのささやかな楽しみだったりする。痕跡を見て昨晩の蒔苗がどれだけ情熱的だったかを想像するとひどく興奮して、ときにはそのまま蒔苗のベッドで自慰をしてしまうこともあるくらいだ。

 そう、先週も――。

「どうしたんだ、ニヤニヤして?」

「……なんでもない。いただきます!」

 うっかり思い出し笑いを浮かべていたらしい。慌てて顔を引き締め、プルコギピザを口に運ぼうとしたところで、テーブルに置いてあるスマートフォンが震えた。アルバイト中にマナーモードにしたままになっていたようだ。

 メールかメッセージだろうと放っておくが、振動は長くしつこく続く。そのままにしておくのも煩わしいので手に取ってみると百合子からの電話だった。少し迷って、出る。

「もしも……」

「アカリ、どうしよう!」

 普段の百合子から想像できない焦った声が耳に飛び込んで来た。

「お願い、今すぐ会えない? こんなことアカリにしか相談できない。本当にもう……わたし、どうしたらいいかわからなくて!」

「何だよそれ、急にこんな時間に、無理だよ。相談なんかマー……」

 マークさんに聞いてもらえばいいじゃないか。言いかけてアカリは口をつぐむ。少人数のゼミの雰囲気を壊したくないという百合子の希望で、マークと百合子が付き合っていることはゼミのメンバーには伏せられているのだった。蒔苗ももちろん彼ら二人の関係は知らない。ここでマークの名前を出すわけにはいかないのだ。

「できない。アカリだけしか頼れないのよ、今……」

 電話の向こうで百合子がぐずぐずと鼻を鳴らしていることに気づく。まさか、泣いているのか? アカリは焦った。あのしっかりした百合子が泣くなんて、よっぽどのことがあったのだろうか。

 ちらりと横目で蒔苗の様子を伺うと電話するアカリを気にすることなくもくもくとピザを食べている。――がっかりするかな。でも、こいつとはまた日を改めても。

「わかった、行くよ。どこ?」

 アカリはそう言って、待ち合わせ場所を決めてから電話を切った。そして、おそるおそる蒔苗に切り出す。

「ごめん蒔苗。ゆりっぺが今どうしても相談したいことがあるって言ってて。ちょっと様子も変だから、今日の分は延期にしてもらえる?」

 内心では「嫌だ」とか「行くな」とか、そんな言葉を少しくらいは期待していた気もするが、蒔苗はただ「ああ、そう。わかった」と味気ない返事をしただけだった。これまでも、蒔苗の家にいるときに怒涛ののろけ電話の相手をさせられることが何度かあったので慣れているのかもしれない。

「絶対埋め合わせするから。本当にごめんな」

 ひたすら謝りつつ玄関に向かうアカリに、蒔苗はぽつりと呟いた。

「明里、滝と仲がいいんだな」

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