「あーもう、本当タイミング悪いんだから」
ぶつくさ言いながらアカリは百合子との待ち合わせ場所に向かう。
百合子の呼び出しで蒔苗との一夜を邪魔されたことは当然面白くない。蒔苗が帰ろうとするアカリを一切止めなかったことは、さらに面白くない。
冷静になると、どうしてうっかり百合子に「行く」などと言ってしまったのか、十分前の自分を殴り飛ばしたくなる。しかし大方の男と同様に、ゲイではあってもアカリは人並みに女の涙に弱いのだ。
どうせ恋する乙女の悩みなど、喧嘩か振られたかのどっちかだろう。相手の悪口に相槌打って、適当になだめて所要時間は一時間、いや二時間――、さすがにそれから蒔苗の部屋に戻るわけにもいかないか。
しかし苦々しい思いも、待ち合わせたカフェの隅にこの世の終わりのような顔をして座っている百合子の姿を見ると一気に吹き飛んでしまう。普段明るく爽やかな分、背中全体に負のオーラを背負っている百合子の姿はちょっと近づきづらいくらいに異様だ。正面から歩み寄っているのに、うつむきがちな生気のない目はアカリの姿に気付く様子すらない。
「ゆ……ゆりっぺ?」
おそるおそる声をかけると、驚いたのか、百合子はビクッと全身を震わせた。その勢いで腕がコーヒーカップにぶつかり、ほとんど手をつけていない中身がテーブルの上にこぼれ出た。
「アカリ……」
「うわ、大丈夫?」
アカリは百合子の向かいの席に座り、紙ナプキンでこぼれたコーヒーを拭く。テーブルの上に置かれた百合子のスマートフォンはギリギリ無事だった。様子に気づいてふきんを持ってきた店員に、アカリはホットコーヒーを注文した。
百合子は黙ったままうつむいている。普段はきっちりセットしている髪の毛が少し乱れ、泣いた後で化粧を直していないのか目の辺りのファンデーションがよれて、唇は乾いてかさかさしていた。
「あ、あの。ゆりっぺ、一体何があったんだよ? マークさんと喧嘩でも?」
百合子は首を左右に振った。口をぎゅっと引き結び、眉間に皺がより、気持ちをコントロールしようとしているのはわかるが、その努力もむなしくじわじわと目に涙が溜まりはじめる。
「じゃ、じゃあ。まさか、別れたとか?」
百合子はやはり首を左右に振る。溜まった涙がとうとう決壊して、最初の一粒がぽろりと頰に伝った。
こんな風に泣かれると、アカリにはただおろおろする以外何もできない。何しろ深く女の子と関わったことがないのだから、表面上のやり取りはできても泣かれたり怒られたりすると簡単にぼろが出てしまうのだ。
「あ、あの、ゆりっぺ……」
周囲の客が自分を見ているような気がする。いや、自分を責めているような気がする。それも当然。はたから見れば、このシチュエーションはどうしたって「アカリが百合子に何かひどいことをやらかして、泣かせている図」だ。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーでございます」
コーヒーを持ってきた女子店員すら自分を睨んでいるように思えて、アカリは小さな声で「ありがとうございます」と言うのが精一杯だった。
しかし、喧嘩でもなく別れたのでもないのなら、一体百合子の涙の理由はなんだ? もしや浮気? まあ確かに、クリエーター系の男ってモテるしな。俺だって正直最初見たときマークさんのこと、ちょっといいなって思ったもんな。ま、今は蒔苗がいるからそんなことちっとも考えないけど。
心が現実逃避を始めたちょうどそのとき、百合子がうつむいたまま口を開いた。
「ごめんね、夜中に呼び出しちゃって」
「いや、別に暇してたし、気にするなよ」
当然嘘だ。しかも大嘘だが、今はこう言っておくしかない。とりあえずうまくなだめて百合子に話をさせなければ、下手すると朝までこの居心地の悪い時間が続いてしまいそうで怖い。
「で、ゆりっぺ。聞いて欲しいことって」
「うん。それなんだけど」
百合子は泣き止み、バッグから出したミニタオルで涙を拭った。それから、心を落ち着かせるように水を何口か飲む。アカリはその間すらもどかしくて、許されることならば首根っこをつかんで揺さぶって続きを促したい自分を必死で止める。
ようやく腹を決めたのか、百合子は正面からアカリを見て、すうと一つ大きく息を吸った。そして、言った。
「どうしようアカリ。わたし、赤ちゃんができたみたい」