「……は?」
あれ、今、妙なことを耳にした気がする。百合子の言葉があまりに想定外のものだったので、脳が受け入れることを拒否したようだ。しかし聞き返すアカリに、もう一度百合子は繰り返す。
「わたし、妊娠してるみたいなの」
妊娠。もちろんその言葉の意味をアカリは知っている。その事象がどうやったら起きるのかも知っている。しかし――百合子は自分と同じ大学三年生の二十一歳。やることはやれる年齢だし、もちろん実際にやることをやっているのだろうが、いざ「妊娠」と言われるとその言葉の重みよりも現実離れした感覚が先に立つ。
「妊娠って、誰の?」
「何言ってんの、決まってるでしょ。マークよ、マーク」
動揺のあまりうっかり口から飛び出した失礼な質問に猛烈な勢いで言い返す百合子はほんの少しだけいつもの調子を取り戻したようだ。アカリの脳もようやくフリーズ状態からじわじわと動きはじめる。
ゆりっぺが、妊娠。しかもマークとの子どもを?
「えーっと……いち、に……」
今は十月。いくら指を折って数えてみたところで、百合子とマークが付き合い始めたのは八月。二ヶ月少ししか経っていない。
もちろんアカリは女性の妊娠には詳しくない。女性がセックスの対象にならない同性愛者なので「彼女を妊娠させたらどうしよう」という切実な問題と対峙する同年代の男子学生たちと比べてもある意味この手の話題には疎い。
「俺よくわかんないんだけど、たった二ヶ月でわかるもんなの?」
「そりゃ、調べればわかるわよ。きちんと来てた生理が来ないからまさかと思って検査薬使ったら陽性が出て」
「な、何かの間違いってことは? 病院に行ったわけじゃないんだろ? それに……」
そこでアカリは周囲を気にして声を潜めた。
「なんだよ、マークさんって付き合い始めてすぐに生でやるような奴なのか?」
百合子はぐっと言葉に詰まりながら言い返す。
「そ、そんな人じゃないわよ。ただ、一回だけ失敗しちゃったことがあって。中で外れて、でも時期的に危ない日でもなかったからきっと大丈夫だろうって思っちゃって。確かに考えが甘かったとは思うけど」
「一回! まじかよ」
たった一回の失敗で妊娠。よく言われる話ではあるが、実際に耳にすればどうしたって驚いてしまう。そういった想定外の妊娠って予想以上に多いものなのか? だったらみんなどうやって防いでいるんだ?
「……ど、どうすんの?」
自分のことではないのにやけに喉が渇いてしまいアカリはいったん話を止めて店員を呼ぶと、追加でアイスティーを頼んだ。
「マークさんには、もう話したの?」
「話してない」
こんな時間にアカリを呼び出す時点で、十中八九そうだろうとは思っていた。百合子は突然の妊娠発覚に驚き、動揺からとりあえず「話を聞いてくれそうで、利害関係の薄い相手」を呼び出したのだろう。
「……話した方がいいってわかってるんだけど、まだ心の準備が」
「うん、わかる」
「何も考えられなくて。産むとか堕ろすとか、そういうことも」
「うん」
「だから動転して、とりあえずアカリに電話して。本当ごめん」
もちろん女性ではないので当事者にはなり得ないが、付き合って間もない恋人に妊娠の事実を告げることのハードルの高さ自体はアカリにもうっすらと理解できる。
お腹の子どもをどうするか、どうしたいかというところまで、まだ百合子の頭は回っていない。ただ、怖いのだろう。マークを好きになって、想いが通じて、順調だと思っていた関係に訪れたこれこそ晴天の霹靂。妊娠の事実は間違いなく二人の関係に何らかの変化を与える。
「まあ、何にせよ話はしなきゃいけないだろうから、きついだろうけど早い方がいいんじゃない?」
意外と喜びそうな気もするけど――と言いかけて飲み込む。無責任なことは口にできない。それに、面倒くさそうな顔をされたり、冷たく「堕ろせ」と言われても傷つくだろうが、例えマークが百合子の妊娠を歓迎したところで前途は多難だ。何しろ二人はまだ大学生。
「とりあえず、明日病院に行ってから、確定したらマークに話してみる」
そう言った百合子の顔は少しだけ生気を取り戻したようだった。
話を終えて店の前で別れると午前二時。思ったより肌寒かったので持っていたストールを百合子に渡そうとして「大丈夫よ、アカリったら大げさなんだから」と微笑んで断られた。
店から家へは歩いて帰れる距離なので、真夜中の道を一人歩く。
しかし、同性愛者の恋愛はなかなかに厄介だと常々思っているが、妊娠出産が絡むと男女の恋愛も相当に面倒くさそうだ。だが「妊娠しない体でよかった」などと言っているゲイが数年後には「どうせ俺には子どもは産めないんだ!」と荒れる話も聞いたことがあるから問題は単純ではない。
――恋とか愛とか、子どもとか人生とか。男とか女とか関係なく厄介だよな。
そんなことを考えていると、ふと蒔苗のことを思い出す。百合子の電話に呼び出されて約束をふいにしてしまったが、今頃何をしているだろう。まだ起きているだろうか。もう寝てしまっただろうか。
スマホを開くがメッセージも着信も入っていなかった。アカリは少し迷って「今夜はごめんな」と一言打ち込み、メッセージを送信してみる。
もしかしたら、連絡を待ちわびていたかのように「気にするな」とか「次回を楽しみにしてる」とか、返事が来るかもしれないと期待した。しかし、十分ほどの道のりを歩いて家に帰っても、返信どころかメッセージが開封された形跡すらない。
「ま、あいつにとって俺ってその程度だよな」
ぽつりとつぶやき、アカリは大きなあくびをして布団に潜り込んだ。