40. 冷や水

 目を覚ましたアカリは腰の重苦しさにほっと安心する。

 腰の重さは、眠っている間に蒔苗に抱かれたことの証だ。最初はあんなに嫌だった後始末をしていない中出しすら、今のアカリにとっては蒔苗の情熱を思い起こさせる甘い痕跡だ。ときには蒔苗が激しく自分を抱いたところを思い浮かべて、そのままベッドの上で自慰に耽けることすらある。

 寝室のクローゼットを開けると扉の裏側に大きな姿見がついている。アカリは裸のまま鏡の前に立ち自分の体のあちこちを確かめる。キスマーク、噛み跡、引っ掻き傷。そのひとつひとつを確認し、昨晩の行為を思い浮かべてみる。それだけで腹の奥に熱が溜まり鏡に映るペニスがピクリと震える。

 しかし、今日は何かが違っていた。

「何だこれ?」

 アカリはふと、自分の首がうっすらと青黒くなっていることに気づく。顎を持ち上げてじっくり眺めてみると首の前のあたり、左右二箇所に小さな打ち身状の跡がついている。見える場所に傷やキスマークはつけない約束なのに。

「……っていうか、あれ? あー、あー……っ」

 何度か声を出してみたのは喉に違和感があるからだ。痛いような苦しいような、乾燥した部屋で眠った翌朝とはまた違う感覚で、しかし自分の声は確かにざらついていて、声を出すたび喉が痛む。

 何だろう、蒔苗は何をしたのだろう。

 そこでふと以前見たサスペンスドラマのことを思い出す。警察が死体の首についた青黒い跡を見て、死因を特定していた。

 ――これ、まさか首絞められた跡? 改めて鏡をのぞき込むと、ふたつのアザはちょうど大人の男の指と同じくらいの大きさであるようにも見える。アカリはおそるおそる前向きに両手を伸ばし、架空の向かい合った人間の首を絞める仕草をしてみた。親指が当たる場所はちょうどアカリの首のアザの位置と一致する。

 すっと背中が寒くなった。ちょっと乱暴なセックスをして、ちょっと引っかかれて噛まれて中出しされて、それも情熱の証だと喜んでいる浮かれた恋心にすっと冷や水を浴びせられたような気分だった。

 蒔苗は眠るアカリの首を絞めた。しかも跡が残り、喉に違和感が出るほどひどく。

 以前に風俗店で女の子の首を絞めて出禁になったのだと蒔苗が言っていた。死体を愛する男には、セックスしながら相手の首を絞めたがるような癖もあるのだ。これまでアカリが気づかなかったのは、蒔苗が我慢していたのか、もしくは跡がつかない程度に手加減していたのだろう。でも、昨晩は違う。昨晩はかなりの力で蒔苗はアカリの首を絞めたに違いない。

「……マジかよ」

 アカリはそれ以上甘い痕跡に浸る気分でもなくなり、よろよろとシャワールームに向かう。

 この首のアザ、どうしよう。蒔苗を叱り倒すのは当然として、跡が消えるまではタートルネックかストールが手放せない。声が枯れ気味なのは風邪だといえば不審がられないだろうか。そんな現実的なことを考えて根源的な不安から意識をそらそうとする。

 体を清めて、タオルだけを腰に巻いた格好でリビングに向かう。蒔苗は相変わらずアカリを抱いた翌朝は家を空けるから部屋にはアカリしかいない。

 この部屋に来る回数が増えるごとに「当たり前の風景」としてアカリの中で存在感を失っていった蒔苗の趣味。しかし今日は壁一面の壁面収納に収められた、数え切れないほどの残酷映画がやたらとアカリを圧倒してくる。

「あいつ、本当に死体とやりたいんだよな」

 ぽつりとつぶやく。

 身の危険を感じない関係が数ヶ月も続いて心が麻痺していた。蒔苗の死体愛好癖もいわばコスプレ、いわばプレイ的なものだと思って迎合していた。身を委ねても安全な相手だと勝手に思い込んでいた。でも――蒔苗はこれまでにない強さで昨晩、アカリの首を絞めたのだ。

 決してこの関係は安全なんかではない。不意に湧き上がった黒雲のような不安を振り払おうと、アカリはリモコンを手にしてテレビをつけた。画面に浮かび上がるのは朝の情報番組。先週も観た気がするが、そうだ、あれは百合子の相談を受けた翌朝だ。

 それはまるでデジャヴのようだった。先週とまったく同じ調子で、司会者の男が話題を遮る。緊急速報が入ったらしく厳しい顔で画面に向き直る。

「えー、速報です。××駅近くのホテルで、女性の遺体が見つかったそうです」

 アシスタントの女が、スタッフに渡されたばかりの資料に目を落とし、情報を補足する。

「現場近くでは、半月前と先週の二度にわたって女性が首を絞めて殺される事件が発生しています。いずれも、飲食店従業員の女性で、明け方に若い男とチェックインし、その後男だけが先にホテルを後にする姿が防犯カメラに残っています」

 そうだ、首を絞められたら人は死ぬんだ。アカリはそんな当たり前のことを改めて噛み締めた。

 俺は本当に、いつか蒔苗に殺されてしまうのかもしれない。

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