44. 生きるべきか、死ぬべきか

「……というわけで、産むことにしちゃった~!」

 ――死ね、このリア充。

 場所はゼミ室。目の前で満面の笑顔を浮かべる百合子を前に、アカリは心の中で呪詛を吐く。が、すぐに思い直して「いや、ごめん今のなし。生きろ、腹の子供も元気に生まれてくれ」と訂正する。

 百合子に罪はない。腹の子にはなおさら罪はない。単にアカリの置かれた状況があまりにも悲惨で、しかもあまりに悩んでここ数日ほとんど一睡もできていないので体調も最悪。だから人の幸せを素直に喜ぶ余裕がないだけなのだ。

 首のアザは三日間かけて隠す必要がない程度まで薄くなってくれたが、反比例するかのように目のクマが青黒さを増している。昨日はバイト中に二度もオーダーと違った料理を出してしまうという、ベテランとしては信じがたいミスまでしでかしてしまった。

「そっか、でも、良かったね」

「うん。マーク、子どもは好きだから嬉しいって喜んで、結婚しようって! 夜間休日メインでも修士は取れるみたいだから、昼間は働いて百合子を養うって言ってくれたの!」

 現在四年生のマークはすでに修士課程の試験に合格しているが、何と二足の草鞋を履くつもりらしい。とはいえメディア系の院生は社会人学生も多いのでそう珍しいことではないのかもしれない。とはいえ同じ年齢の百合子があと少し経てばお腹が大きくなり、結婚出産。なんだか一気に人生の駒を進められてしまった感がある。

「ゆりっぺ、まだ結婚出産までは考えてないって言ってなかった?」

「でも、どういう反応されるか不安だったところに、あんな嬉しそうな反応してもらうと、『ああ、やっぱり私この人のこと好きだな』とか『この人の子ども産んで、一緒に生きていきたいな』とか、思えてきて」

 砂を吐きそうなのろけ、というのは冗談として、幸せそうな百合子を見ていると何だかアカリもほわんと暖かく優しい気持ちになる。最近荒んでいるだけに幸せのおすそ分けをもらったような気分だ。だが結婚出産は「嬉しい」「幸せ」だけの問題ではない。

「でさ、ゆりっぺこれからどうするの?」

 アカリが訊ねると、百合子は言った。

「うん、昨日のうちに倉橋先生には話をして、まあ、産むときとその後と、一年くらいは休学することになるのかな。その後はうちの親も育児手伝ってくれるみたいだから復学しようかと。残念だけど、アカリと一緒に卒業はできないね」

「そっか。でも周囲のサポートがあるならきっと、大丈夫だな」

 アカリはまだ見た目には変化のない百合子の腹部に目をやる。

「どんな子が生まれてくるんだろう。男の子かな、女の子かな」

「赤ちゃんの角度とか状況によるらしいんだけど、けっこうすぐわかる場合もあるみたいよ」

「へー。すっげえ、楽しみだな。……そうだ、ゼミのみんなにはいつ話すの?」

「うん、一応マークのご両親が来週日本に来てくれて、挨拶する予定で。それで本決まりになったら話すつもり」

 ということはあと一週間も経てばアカリもこの秘密を抱える必要がなくなるわけだ。すでに明るい結論が見えているのでずいぶん心は軽くなっているが、こうして誰もいないときを見計らってこっそり話をする必要がなくなるだけありがたい。

 そう思ったとき、廊下でガタッと物音がした。誰か来たのかもしれない、アカリと百合子は話を止めた。一応は来週まではこの話は秘密のままだ。

 しかしいつまで経っても部屋に人が入ってくる気配はない。念のため扉を開けて廊下を確かめに出るが、そこには誰もいなかった。アカリと百合子は「気のせいだったのかな?」と顔を見合わせた。

 百合子からの知らせは嬉しいものだったが、夜バイトを終えて一人になるとアカリの心は暗い気持ちで満たされる。

 好きな男に飽きられかかっているかもしれない。そして、好きな男が連続殺人犯かもしれない。前者だけならばともかく、後者が絡むので話は重く複雑になる。そしてその後者についても、ただ「蒔苗が殺人者なんて嫌だ!」という気持ちと「結局蒔苗は死んだ人間じゃないと満足できないのか!」という気持ちが深く絡み合っている。

 アカリは洗面所に行き首回りを鏡に映してみる。すでに薄くなった指の跡が今では切ない。まるでアザが薄くなるのと同時に蒔苗の自分への関心も薄くなってしまっているような気がした。

「これじゃ、足りないのかな……」

 どうすれば蒔苗の気持ちを自分だけに向けられるのだろう。首なんか絞めたければいくらでも絞めればいい。それで蒔苗の欲望が満たされるのなら。そして、それでもし蒔苗が少しでもアカリのことを好きになってくれるのなら。変な奴と思われても一年中タートルネックで過ごしたって構わない。でも、結局のところアカリがこうして生きて動いている限り、蒔苗の気持ちは手に入らないのだろうか。

 アカリはここ数日、狂ったようにネットで「月曜日の絞殺魔」の記事を検索しては読み漁っている。同じような場所で同じような犯行を三度も繰り返して、捜査の網はずいぶん狭まってきているという噂だ。警察も月曜日早朝を中心に警戒を強めているようなので、再び同じ場所同じ時間に犯行を繰り返すことがあれば、そろそろ捕まるのではないかという予想が大勢を占めている。

 アカリは今蒔苗から向けられる欲望を失いつつあるし、ここで蒔苗が捕まってしまうようなことがあれば、好きな男そのものをなくしてしまう。きっと女性を三人も殺して捕まれば、待ち受けるのは死刑判決だ。

「止めなきゃ、次は絶対に」

 もしどうしても殺したいなら、死体とセックスしたいという欲望が止められないというのならば。――だったら、俺を。