47. 終わりよければすべてよし

 蒔苗の唇が自分のそれに触れている。それはまるで夢のようで、なかなか現実感のわかないアカリは何度も「もう一度」とねだった。控えめでためらうようなキスはもどかしくて、物足りなくて、でも今はその初々しさが何よりも愛おしかった。

「ところで、さっき滝の妊娠は俺の勘違いだと言ったな?」

 意外にも蒔苗はそのことにまだこだわっているのだった。アカリは笑い、さすがにもういいだろうとネタばらしをする。

「まだ皆には内緒だから、言うなよ。妊娠は本当だよ」

「えっ?」

「でも俺は父親でもなんでもなくて、ただ相談受けてただけ。ゆりっぺ、マークさんと付き合ってて結婚するんだよ」

 ふう、と安堵の息が漏れるのを聞いた。可笑しくて、嬉しい。

 ひとりきり蒔苗と話し終えたところで病室に見知らぬ若い男が駆け込んできた。やや人相の悪いスーツ姿の男はアカリの顔をみるなりがばっと頭を下げる。

「すみませんでしたっ。とっさだったとはいえ口を塞ぐなんて。まさか気を失うほど驚かれるとは思わず」

「……あなた、誰ですか?」

 そういえばアカリは自分がなぜ病院にいるのかについてまだ説明を受けていなかった。てっきり蒔苗が「月曜日の絞殺魔」だと思い込んで、犯行前に止めようと繁華街を歩き回っていた。その最中に急に後ろから口をふさがれて……。

「私、こういう者です」

 男が差し出した名刺を受け取り、書いてある文字に目を落とす。

「……刑事?」

 男は「月曜日の絞殺魔」の捜査本部に所属する刑事だった。緊急配備中に同じ場所をぐるぐる歩くアカリを怪しんで職務質問をしようと声をかけたところ大声を出したので、うっかり手を出してしまったのだという。

 連日の睡眠不足とアルバイトによる過労で、自分では気づいていなかったがアカリの体力は限界に達していた。驚いた拍子に失神してしまい、むしろ刑事の方が仰天してしまったようだ。

「いや、こっちこそなんか、すみません」

「いえいえ、本当に恐縮です」

 刑事のくせに妙に腰の低い男は何度もぺこぺこと頭を下げてから、去り際にふと思い出したように訊ねた。

「ところで、あんな時間にあんな場所で、何やってたんですか?」

「えっ?」

 アカリは言葉に詰まる。まさか、目の前にいる蒔苗が「月曜日の絞殺魔」だと思い込んで張り込んでいたとは口が裂けても言えない。むにゃむにゃとひねり出した言い訳はどこからどう見ても苦しいものだった。

「お、俺、大学でミステリー研究会に入ってて事件に興味があったんです」

 すると刑事は少しだけ厳しい顔になってアカリに忠告した。

「下手すると巻き込まれることがあるんで、あまり危険なことはしないでくださいね。まあ今回の犯人は無事捕まったけど」

「はい、すみません」

 刑事を見送り、点滴が終わると退院が許された。それにしてもまさか路上で倒れるなんてとんだ失態だ。アカリの人生で、たった数時間であろうと入院するのも点滴を受けるのも初めてのことだった。それもこれも、元はと言えばこの人騒がせな――。

「そういえば、なんで蒔苗がここにいんの?」

「病院の人が、携帯の発信履歴が多いから知り合いだろうと思ったみたいで、電話してきた」

「心配した?」

 アカリのおそるおそるの質問に、蒔苗は少し考えてから、ぽつりとつぶやいた。

「……死んだかと思った」

「はは、むしろ興奮したんじゃないのか?」

「そのはずだったんだけどな。いざ本当におまえが死んだかもって思うと……怖かったよ」

 照れ隠しのようにごつんと色気のない仕草で頭を小突かれるが、蒔苗の言葉はアカリにとって何より嬉しいものだった。

 会計を済ませて病院を出たところでポケットのスマートフォンが震える。発信者は百合子だった。短い会話を交わして電話を切ると、蒔苗が相手を気にするようにアカリの様子をちらちらとうかがっていた。

「ゆりっぺだよ。大学に来ないからどうしたのかって」

「ふうん」

「あ、今、妬いた?」

「妬いてない」

 むきになる蒔苗が珍しくて可愛くて、からかいたくなる。まさか蒔苗が百合子に嫉妬していたとは。嬉しくてそれだけで顔がにやけてしまう。

「本当はあの日、ゆりっぺにすっげえむかついてたんだけど。結果オーライだな」

 あの日、というのは言うまでもなく百合子の呼び出しで逢瀬を邪魔された晩のことだ。

「そうか?」

「だって、ゆりっぺのおかげで鈍感なおまえが嫉妬という感情を覚えたんだろ?」

 さすが恋愛の大先輩。こんなところで思わぬサポートをしてくれるとは。まあ百合子本人には到底自覚はないのだろうが。

 時計に目を落とし、蒔苗が言う。

「どうする? 学校」

「あーっ、そうだな。まさか午前丸々休む羽目になるなんて、初めてだよ」

「ゼミだけでも顔出すか?」

 しかしアカリは左右に首を振る。だって、やっと思いが通じた今、すべきことはひとつしかない。