第2話

 声をかけてきた男は、ぼくが立ち上がることすらままならないと知ると傘を閉じた。そして腕を引いてぼくを助け起こし、家までずっと肩を貸してくれた。

 ぼくのマンションにはエレベーターがないので、息を切らしながら階段で三階まで上がった。自分の部屋のドアが見えたときには心底ほっとした。

「ありがとうございました」

 玄関に入ると、床に下ろしてもらう。ここから先は慣れた部屋の中だから、もう一人で大丈夫だ。

 でも、照明をつけた場所で助けてくれた男の姿を改めて眺めると――彼は頭の先から足の先までびしょびしょに濡れている。ぼくに肩を貸していたから歩くスピードはとてもゆっくりで、十分かそれ以上のあいだ激しい雨の中を傘もささずに歩いてきたことを思えば当然だ。

「じゃあ……俺は」

 そのまま立ち去ろうとした彼に、ぼくは思わず呼びかけた。

「待ってください。タオルと着替えを出しますから、着替えて行ってください」

 振り向いた彼の額には、黒い髪がべったりと張りついている。その下の顔を見る限り、多分年はぼくとあまり変わらない。美形とまではいわないものの人好きのする顔をしている。水を吸ったパーカーとデニムは多分、大手ファストファッションのものだ。

 窮地を助けてもらった贔屓目があるのは確かだが、少なくとも彼はぼくにとって警戒したり敵意を感じたりする必要がある相手には見えなかった。

「いえ、そういうつもりじゃなかったんで」

 遠慮がちに首を振られると、逆に後に引けなくなる。それに、よく見ると寒さのせいか彼の手足は小刻みに震えているようだった。

「でも、そんな格好で歩き回ったら風邪を引きます」

 さっきより少し強い調子で言うと、男の視線がちらりとぼくの下半身をかすめる。歩くのに邪魔な義足は彼の手を借りて外していたから、ぼくの左膝下は水に濡れたボトムがぺちゃんこにしぼんで、なんともみっともない姿だった。

 もしかしたら、彼の方がぼくを怖いと思っているのだろうか。

 夜道にへたりこんでいた片脚の男の部屋に誘われるなんて、もしかしたら不気味なことかもしれない。無理強いするような言い方はまずかったかと後悔しかかったところで、彼の唇が動いた。

「じゃあ、ご迷惑でなければ、タオルだけでもお借りします」

 そういうわけで、見知らぬ彼は事故以来はじめてぼくの部屋に上がる人間になった。

 とりあえず下半身にまとわりつく邪魔なボトムを脱がないと、義足の再装着もできない。ぼくは彼に靴を脱いでもらい、先に居室に行ってくれるよう頼んだ。

「なにか、手伝うことはありますか?」

 義足をかたわらに床に座りこんでいるぼくを見て彼は心配そうだが、助けは必要ない。

「いや、家の中の動きは慣れてるんで問題ないです。すぐタオル持っていくんで部屋に行っててください。フローリングは後で拭くから、濡れても気にしないで」

 彼の姿がドアの向こうに消えると、まずは肌にまとわりつくボトムを脱ぎ捨てた。

 義足を履く前には、脚の側にシリコンライナーと呼ばれシリコン製の靴下のようなものを装着する。シリコンライナーの先端には金属製のピンがついていて、そのピンを義足側のソケット内部に開いている穴に差し込むことで、脚と義足がしっかり固定されるのだ。ソケットだって、ぼくの断端に合わせて型をとり、義肢装具士がオーダーメイドで作っているから、普通ならちょっとつまずいたくらいで外れることはない。よっぽど変な転び方をしたに違いない。

 水に濡れたシリコンライナーを一度脱いで、壁伝いに片脚で飛び跳ねながら洗面所に行くとまずはタオルで脚を拭いた。それから義足を履き直し、着替えを取りに部屋へ向かう。

 仕方ないとはいえ、これまで治療担当者と親以外に見せたことのないむきだしの義足姿を初対面の男に晒すことには恥ずかしさがあった。

 びしょびしょに濡れているので座るわけにもいかないのだろう、ドアの近くで居心地悪そうに立ったままの彼の視線を感じながら、クローゼットの扉に手を掛ける。自分のために下着と部屋着一式、それから彼のために――。

「スウェットでいいですか……っていうか、家って近いんですか? 電車に乗るならデニムとかの方がいいですよね。あ、新品のパンツあったっけ」

「いや、そこまでは。家に帰るだけだし、ほんの数駅だから」

「でもそれだけ濡れてるなら、パンツも湿ってるでしょ。それじゃ着替えても意味がない」

 言いながら、小物類を入れてある衣装ケースをのぞきこむが、残念ながら下着の買い置きは見つからない。ぼくは少し考えて、振り返る。

「じゃあ、一時間くらいなら待てます? 人のパンツって気持ち悪いでしょうし、乾かしますよ。うち浴室乾燥あるから」

「え……?」

 風呂場についている浴室乾燥機能はガス代がかさむものの、パワーが強く下着や靴下程度ならすぐに乾く。そのことを思い出したのだ。ぼくに付き合ってここまで送ってくれたくらいだから、どうせ急ぎの用があるわけでもないだろう。

「メシでも、って言うほどのものはないんで、ビールとつまみくらいですけど。ちょっと飲み食いしてれば一時間くらいすぐでしょう。それとも酒飲めないとか……」

「いえ、そういうわけじゃないですけど」

 しかし、濡れた下着でズボンの尻を濡らして外を歩くことよりはましだと思ったのか、最終的には彼はぼくの提案に乗った。

 

 ぼくが先に風呂を使った後で、体を温めるためにも彼にも入浴を勧めた。間に合わせのために貸したぼくのパーカーとハーフパンツに身を包んで戻ってきた彼は借りてきた猫のようにおとなしい。ぼくは濡れたものを浴室に吊すと乾燥機能のスイッチを入れた。

 人を招く心の準備など皆無だったので、冷蔵庫には水とビール、あとは買い置きの乾き物がいくらか。遠慮がちな彼をうながすためにプルタブをあけてから缶を手渡した。

 何か話さなければ、そう思ったところで自分が彼の名前も知らないことに気づく。

「ぼく、土岐津ときつっていいます」

 ベッドに座って、彼にも好きな場所に座るように言う。とはいえベッドと床の他は、壁際にあるパソコンデスク前の事務椅子だけ。彼は少し迷って床に腰を下ろしてから口を開いた。

「おれは、宇田うだといいます。なんか、すみません。逆にこんないろいろ」

 そう言って宇田はビールに口をつける。

 彼の目の高さからやや低い場所にぼくの膝がある。普段のぼくは家の中では、トイレや風呂に移動するとき以外は義足を外している。しかし宇田がいるいまは、風呂上がりに再び装着した義足をそのままにしていた。スウェットの足首からはカーボンがのぞいているが、膝のあたりはそう違和感はないはずだ。

 しかし宇田はやはりそこが気になるのか、ちらりと視線をやっては目を離すことを繰り返している。当たり前だ。ぼくだって逆の立場だったら同じことをする。

 脚に注目されているのに、そう不快でないのが不思議だった。彼が恩人だからなのか、それとも――彼が過去のぼくを知らないからなのか。そんなことを思いながら、気づけばぼくは自分から脚のことを話題にしていた。

「変なやつだと思いますか? 義足なのに坂道のそばの、エレベーターもないマンションに住んでるなんて」

 ぎくりと宇田の肩が震える。こうして近くで見ると、彼はぼくよりもやや小柄だ。ぼくに左膝下の重さがない分、見た目ほど目方の差はないかもしれないが、ぼくに肩を貸してほとんどの体重を引き受けてここまで歩いてくるのは楽ではなかっただろう。けれど宇田はまったく辛そうな様子を見せなかった。

 ぼくはすでに、宇田という男に好感を抱きはじめていた。

「気を遣われるの好きじゃないんで、気になるならはっきり聞いてもらった方がいいです。だって普通じゃないでしょ、あんなところでこけてて」

「……いや、具合でも悪いのかと」

 ぼくの自虐的な口ぶりに、宇田はぎこちなく笑った。

「去年の夏に事故に遭ったんです。入院やリハビリでばたついて、本当はもう少し便利なところに引っ越したいんですけど。ここ、脚があるときに選んだ家なんで」

「去年の……夏」

「そう。で、家飲みってそれ以来なんで」

 そこまで話すと、ぼくはビールの缶を宇田の目の前に差し出した。一瞬遅れて彼もぼくの意図に気付いて缶を持ち上げる。

 どちらも「乾杯」と口にはしなかったが、アルミ缶のぶつかるコツンと乾いた音が部屋の中に響いた。

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