第3話

 見知らぬ男が二人。ずっと流れていた気まずい空気は、ビール片手に言葉を交わすことで少しずつ和らいだ。

「本当に、人を上げるの自体すごく久しぶりですよ。前はたまに大学のやつら呼んで鍋とかしてたけど」

土岐津ときつ――さんは、大学生なんですか?」

 床に座った宇田うだがぼくを見上げて、聞く。「くん」付けするか「さん」付けするかを迷ったように名前の後には微妙な間があいた。

 ぼくは左足を軽く持ち上げながらうなずく。

「大学院。っていっても、のせいでずっと休学してるから、いまは無職ってことになるのかな。宇田さんは何やってる人?」

 宇田がぼくに「さん」を付けて呼んだから、こちらも同じようにした。

「えっと、契約社員みたいなやつとか、アルバイトとか」

「へえ、どういう仕事ですか」

「昼間はコールセンターで、夜はコンビニとか、運送会社の仕分けとか……そういう」

 宇田は週に数回、ここからしばらく歩いた距離にあるコンビニエンスストアで夜の時間に働いているらしい。しかし今日に限ってシフトを勘違いしており、出勤したもののそのまま帰されてしまった。ぼくを見つけたのはその帰り道だったというわけだ。

「頼まれて明日と今日、シフト交代してたんですけど、すっかり頭から抜けてて。間抜けですよね」

 そう言って宇田は照れたように笑った。

「宇田さんがポカやったおかげで助けてもらえたんだから、ぼくはラッキーですよね。あそこで声をかけてもらえなかったら詰んでたとこです」

 彼はシフトを勘違いしたことを間抜けだと自嘲するが、ぼくからすれば僥倖だ。こうして向き合ってビールを傾けていると、あの最悪の状況で出会ったのが宇田で良かったと思えてくる。

 彼はぼくの脚に人並みの関心は持っているようだが、土足で踏み込むような真似はしない。かといって、その視線に過度な哀れみを感じるわけではない。彼は脚を失う前の自分を知らない、ただそれだけなのに、不思議とぼくは宇田と話すことに気楽さを感じていた。

 ぼくはクラブなどで遊び回るようなタイプとも違うし、いわゆる「隠キャ」でもない。人並みに遊んで、人並みに勉強して、飲み会に行ったり、たまには友人たちとフットサルやバーベキューで盛り上がったり、「ごくごく平均的な量産型男子大学生」というのが一番適切な表現だろうか。

 けれどそんな当たり前の日常やぼく自身の姿は、事故でぺしゃんこになった左脚とともにぼくから切り離されて死んでしまったような気がしていた。友人たちとの関係が変わってしまうことへの違和感や恐怖を受け入れきれなくて、距離を置くことを選んできた。

「他の誰か……近所に友達とか……」

 まさかこちらの心を読んだわけでもないだろうが、宇田はためらいがちにそう尋ねた。誰しも携帯電話を持ち歩いている時代なのだから、疑問としてはごく当たり前のものだ。

 ぼくは早くも一本めのビールを空にして、テーブルの上に手を伸ばすと二本目を手にした。そういえば今日は大学に行くことへの緊張のあまり朝も昼も抜いた。ビールの苦味と旨味、そしてアルコールと炭酸の刺激が空っぽの胃にどんどん染み込んでいく。

「まだあきらめがつかないっていうのか、怪我の前の自分を知ってるひとに惨めなとこ見られたくないんですよね。宇田さんは逆に、ぼくを知らないから」

 左膝をぽんぽんと叩きながら、ぼくの言葉は止まらなくなる。

「考えすぎだって言われるし、実際、障害の程度でいえばもっと大変な人ってたくさんいるんですよ。でもやっぱり、自分としてはしんどくて。この先人並みに恋愛とか就職とかできるのかとか、できたとしても結局ずっとこの体と付き合い続けるんだなとか」

 太腿から切った人、股関節から切った人、同じ脚の切断でも彼らの方がよっぽど不便は多い。膝関節が残っていれば義足で走ることだってできるのだ。脚切断について調べる中で嫌というほど理解した事実だが、それでも「自分がラッキーである」と考えるのは難しい。

 ぼくの比較対象は、同じように肢体切断を経験した人々ではない。

 ぼくはただ、自分に二度と戻れないことが辛いのだ。

 勢いのままに両親にも告げたことのない内心を口にしてしまったが、宇田と視線がかちあった瞬間に恥ずかしさがこみ上げた。出会ったばかりの赤の他人にこんな話、あまりに重すぎる。

「ご、ごめん。宇田さんにこんな愚痴こぼしたって……」

 しかし宇田の顔に浮かんでいるのは困惑ではない。思いのほか真摯な目でぼくを見つめ、彼は聞いた。

「あの、土岐津さん。脚の手術って、どんな感じですか」

 やや見当外れな質問。でも軽く酔っているぼくはそれを都合よくとらえた。つまり、宇田が少しでもぼくの話を聞いて、ぼくに寄り添おうと試みているのだと。

「覚えてないよ。事故でむっちゃ出血して、全身麻酔かけられていたし。検討の余地も相談の間もなく、目が覚めたら脚がなかったんです」

 そこでふと、悪趣味なことが頭に浮かんだ。

 宇田はすでに、ズボンを脱いだぼくが義足をつけて動く姿を見ている。その上でまだこの体に興味があるというなら――。

「断端……脚切ったとこ、見たいですか?」

「え」

 宇田の顔はなぜか、青くなる代わりに赤くなった。きっと酒のせいだ。

 その表情が恐怖や嫌悪であれば、もしかしたらぼくは正気を取り戻したかもしれない。けれど宇田はいくらか当惑しながらも、まんざらでもなさそうだった。控えめそうに見えるが、実は好奇心が強いタイプなのだろうか、そんなことを考えながらぼくは左足のスウェットを一気にめくりあげた。

 本当はずっと興味があった。ぼくのを見たとき、家族でも医療関係者でもない普通の人はどう感じるのか、どんな反応を見せるのか。それは今後の自分の対人関係や社会生活について考えるのに、とても大切なことのように思えた。

「いいよ、宇田さんは恩人だから、見せてあげる」

 義足のソケットを両手で握り、ぐっと力を込めて外す。それからシリコンライナーをくるくると回しながら肌から取り去った。そこにはもう、むきだしの脚があるだけだ。

 多分切った直後は、店で売っている鶏もも肉の切断面、あんな感じで肉や筋や骨が断ち切られた様子が生々しかったのだろう。でもきれいに縫合され外科的には治癒したいまでは、つるんとして、例えるならウインナーソーセージの端っこみたいな見た目になっている。

 ぼくの突然の行動に驚いたのか何も言わず、しかし宇田は取り憑かれたように脚の断端を凝視していた。あまりに熱心すぎて、こちらが当惑してしまうくらいじっと。

「……宇田さん?」

 名前を呼ぶが、返事はない。代わりに宇田は手を伸ばし、ぼくの左脚に触れた。ちょうど七ヶ月前に断ち落とされたその場所に、そっと指を滑らせた。予想外の行動にぼくの全身がびくりと震えるが、彼は動じない。

 医者や装具士や理学療法士以外触らせたことがない場所。自分で触れるのも嫌で、風呂や義足着脱など最低限のとき以外目を背けている。宇田そこをじっと見つめ、触れて、そっと撫で続けた。

 ぼくは言葉を発することも、彼を制止することもできずに、ただじっと宇田のすることを眺めていた。なぜ宇田はこんなことをしているのだろう。

 哀れみとも単純な興味本位とも違う――不思議な触れ方だ。例えるならば愛撫。怪我の数ヶ月前に、就職のため引っ越した恋人との遠距離恋愛は破綻していた。そしてもちろん事故以降はなにもない。治療以外での他人との接触はあまりに久しぶりで、それが出会ってまだ数時間の、同性の手であることを差し引いたところであまりに優しくて気持ち良い。

「ごめん、宇田さん」

 ようやく彼を静止する言葉を口にしたときには、スウェット越しにもぼくの勃起は隠しきれないほどになっていた。

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