第5話

「……それにしても坂道での転倒なんて。もし義足が合わないせいなら、すぐにでも装具技師に連絡して調整したほうが良いと思いますよ。下手すると大きい怪我をすることもあるから……って、土岐津ときつさん聞いてます?」

「え? あ、はいっ」

 強い調子で名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。声をかけてきたのは宮脇みやわきという名の理学療法士で、当初からずっとぼくのリハビリテーションを担当している。

 年齢はぼくよりも十歳くらい上だろうか。もともとはプロスポーツを目指していたと聞いた気がするが、いかにも体育会系っぽい溌剌としたタイプ。はっきりとした物言いが乱暴に聞こえることもあるものの、ここまでリハビリが順調に進んできたことを思えば、彼のやり方に間違いはないのだろう。

「どうしたんですか、ぼーっとしちゃって」

 リハビリを終えたぼくは施術台に横になって、張り詰めた筋肉をほぐすためのマッサージを受けているところだった。事故前もたまにフットサルやランニングくらいはしていたが、鍛え上げていたわけではない。何より義足で歩くには、通常歩行とは違う筋肉を異なった方法で動かす必要がある。苦手な動きを集中して訓練すると、リハビリを終える頃にはくたくたになってしまうのだ。

「すいません、聞いてます……」

 上の空だったのは図星だが、何を考えていたかは言えない。

 ぼくの頭の中は、宇田うだのことでいっぱいだった。どうして彼はインターフォンを押さずに衣服をドアノブに掛けて去ったのか。ぼくと関わりたくないと思っているに違いないと思う反面、ただ遠慮しただけなのではないかという期待も捨てきれずにいる。

「義足は大丈夫です。足元をよく見ていなかったのがまずかったんで、今度からは雨の日はもっと気をつけるようにします」

「だったらいいけど。しかし雨の中で転倒して義足が外れるなんて災難だな。ちゃんと家には帰れたんですか?」

 ――こうして、宮脇との会話すら結局は宇田にたどり着くのだ。

「ええ、偶然……親切な人に助けられて」

「へえ、そりゃラッキーでしたね」

 そう言いながら宮脇の力強い手がぐっと太腿の筋肉を押した。

 もう半年ほども、最初のうちはほぼ毎日、いまも毎週のようにこうして宮脇には触れられている。もちろん脚の切断箇所にも数えきれないほど。でも一度だって宇田に触れられたときのように体が昂ることはなかった。

 一体あれはなんだったんだろう。宇田の触れ方がまるで愛撫のように優しかったから体が何かの間違いを起こしただけ。いや、ぼくの心も体も、それだけではないということを知っている。だって、ぼくは昨晩も宇田の手や、赤らんだ首筋のことを思い出して自慰をしてしまった。

 これまで好きになったのも、付き合ったのもすべて女の子だった。世の中に性志向があることは知っているが、自分が同性に惹かれる可能性を考えたことはなかった。

「宮脇さん――マッサージしてて、患者が勃起したことってあります?」

「は?」

 宮脇の手が驚いたように止まる。それから腰をかがめてうつぶせになっているぼくの腹部をのぞきこむような動きを見せた。

「あ、違います。ぼくのことじゃありません。ただ、その……ほら、やっぱり脚切った後っていろいろご無沙汰するじゃないですか。だから、ちょっと触られた拍子に反応する人もいるのかなって」

 いきなりシモの話題を振っておきながら勝手に動揺するなんて、どこからどう見てもぼくの態度はおかしい。だが伊達に十年選手の理学療法士ではない、宮脇は平然としていた。

「つまり、アッチの悩みがあると?」

「あ、いや、悩みというほどのことでは。変なこと聞いてすみません」

 彼はマッサージの手を止め、丸椅子を引き寄せ腰を下ろす。

「いいよ別に……男性患者さんはそういう悩みがあって当たり前ですし。ちなみに土岐津さんって、彼女いましたっけ」

「いや、いまは特には」

 手術以降それなりに長い時間を過ごした相手とはいえ、さすがに脚の怪我をきっかけに男に目覚めることがあるかなどと聞く勇気はない。ぼくは不自然な笑みでごまかそうとするが、宮脇は完全に相談モードに入ってしまった。

「恥ずかしがって相談できないって人は多いけど、体の一部分を失うって大きな話ですからね。体の動きに制限がある以上、性交渉のスタイルも変わりますし。パートナーがいる場合は話し合いが必要だし、中には落ち込んでEDを発症するケースもあるって聞きますよ。……土岐津さん、もし悩みがあるなら、うちの病院のカウンセラーにつなぎましょうか?」

「カウンセリング? そんなおおげさな」

 なんの気ない雑談が深刻な方向に向かいはじめたことにぼくは動揺した。

 今回に限らず、主治医や宮脇からは過去に何度かカウンセリングを勧められてきた。ぼく自身は治療関係者相手には平常心を意識しているが、きっと両親が「息子は怪我をきっかけに心を閉ざしてしまった」とでも吹き込んでいるのだろう。でも、精神科医や臨床心理士に会ったところで、失った脚が生えてくるわけではない。ぼくにはカウンセリングなど無駄としか思えなかった。

「おおげさなもんか。体にメスを入れるだけでもすごいストレスなのに、土岐津さんなんて心の準備なしに脚を切ることになったんだから。……確かひとり暮らしだったでしょう? ネガティブな気持ちとかちゃんと吐き出せてます? 彼女……はいないなら、友達でも」

「ええ、います。大丈夫です!」

 これ以上カウンセリングを勧められるのも厄介なので、ぼくは適当にうなずいて話を終わらせた。とはいえ宮脇が「ネガディブな感情を吐き出す相手」と言った瞬間頭に浮かんだのはやはり、たった一度短い時間を過ごしただけの宇田の顔だったのだけれど。

 

 病院を出るともう夕方だった。

 家に帰って夕食をとって、風呂に入ってあとは寝るだけ。病院のない日も、体力維持と義足訓練のため必ず一度は外に出る。公園を散歩したり、近所の店で買い物をしたり。だが、人混みの中を歩くことに自信がないので繁華街にはあまり行かない。義足のせいで試着が面倒で、服はすっかり通販派になった。

 大学に復学しない限りはきっと永遠にこんな日々が続く。事故の賠償金はせいぜい数年分の生活費にしかならないが、腫れ物に触るような両親は仕送りを止めないだろう。障害年金だっていくらかは受給できる。でも――本当はそれではいけないとわかっている。失った脚が戻らない以上、新しい体を受け入れて前に進むしかないのだと。

 ズキン、と急に足の先が痛んだ。ここ数日は感じなかった痛み。現れたり消えたり、強くなったり弱くなったりしながらここ七ヶ月ずっと続く痛みは幻肢痛ファントム・ペインと呼ばれるものだ。

 ぼくは視線を左足先に落とす。スニーカーの中に収まっているのはカーボンやら金属やらシリコンやらで出来た義足で、そこに感覚はない。なのに、まるでそこに自分の足が残っているかのように〈何もない空間が〉ずきずきと痛む。それはときに、現実の痛み以上に生々しい。

 もちろん痛み自体も不快だが、幻肢痛で一番辛いのは、ときにまだ脚が存在していると錯覚してしまうことだ。特にぼんやりしているときや寝起きなど、一瞬まだ自分に左膝下が残っているのだと信じそうになる。事故も、脚の切断も、義足も何もかも夢なのだと。そして――やがてその痛みが何もない場所から生まれている幻覚であることに気づいて、また新しく脚を失った絶望を味わう羽目になる。

 義足をつけていると幻肢痛が和らぐという人もいるが、ぼくの場合痛みは完全にランダムに現れ、ランダムに消える。できるのはただ、不快な感覚が消えるのを待つことだけ。

 痛みがひどくなる前に夕食の弁当だけ買って帰ろう――そう決めて駅前のコンビニエンスストアに向かった。聞き慣れた入店音。自動ドアが開いて、先に店内に入ったのは義足をつけた左脚だった。

 そして顔を上げたぼくは、レジの内側に宇田の横顔を見つけた。