第6話

 レジカウンターの中で接客中の宇田は、こちらに気づいていない。その横顔を眺めながらぼくは、「果たしてあれは本当に宇田なのか」と自問する。

 一緒に過ごしたのはほんの数時間だけだった。最初は暗闇の中、最後の方は少し酔っていた。ぼくにとって宇田という人間の印象は鮮烈だったが、それはどちらかといえば肩を貸されたときに感じた体温だとか、同じ部屋にいるときの空気だとか、触れられた手――そして、こちらから触れ返したときに手の中に感じた熱さや吐息によるものだった。

 ぼくの外見が量産型大学生であるならば、彼は量産型非正規雇用青年とでもいうべきか。身だしなみに気を遣ってはいるが、華美ではなく金もかけていない。よく見ると人好きのする整った顔をしてはいるのだが、態度が控えめで声も小さいからか、目立たない印象を受ける男だった。

 今日の彼は、はっきりとした色柄の制服を着ているせいか一昨日とは雰囲気が異なって見える。まさか人違いではないだろうか、そんなことを考えながらぼくは吸い寄せられるように店内を一歩、二歩と進んだ。

 もちろん嬉しさと気まずさが入り混じった心は複雑だ。ぼくが宇田ともう一度会いたいと、このあいだの夜のことを弁解したいと思っていたのは事実だが、宇田がぼくを避けるようにこっそりと服を返しにきたこともまた事実なのだった。

 いくらこちらが宇田を特別な人間であると感じたところで、彼がぼくのことを薄気味悪く思っているのだとすれば、そこまでだ。ただでさえ怪我以前からの友人たちに気後れしているところに、怪我以降に出会った最初の人間である宇田に本格的に拒絶されれば、ぼくの対人関係への意欲は完全に死んでしまうだろう。だったら、あの一件はただの事故だと思って忘れた方が余計な傷を負わずに済むのではないか。

 一瞬のあいだに頭の中をいろいろな考えが駆け巡り、しかし回れ右をするよりも先に、接客を終えた宇田が顔を上げ、こちらに目をやった。

「あ」というかたちに彼の唇が動いた。声が出ていたかはわからない。唇の隙間から小さく形の良い歯がのぞいて、ぼくは彼の歯並びがとても美しいことにはじめて気づいた。

 彼は親しげな表情を浮かべる代わりに視線を泳がせ、「いらっしゃいませ」と言った。もしかしたらその声は、ぼくの後から入ってきたOL風の女性に向けたものだったのかもしれない。

 逃げ出したい気持ちと、この幸運にすがりたい気持ち。激しく打つ心臓をなだめすかしながら僕は店内を進んだ。

 弁当や惣菜の棚を見ているふりで、本当は商品なんて目に入ってはいなかった。どうしよう。宇田がいる方に並んで、会計のときに話しかけてみようか。それともやめておくべきだろうか。それにしても、このコンビニエンスストアには何度も来たことがあるが、宇田を見るのは初めてのように思う。それともただ、ぼくがこれまで彼に目を留めなかっただけなのか。

「何かお探しですか?」

 急に背後から声をかけられて、ぼくは驚いて振り返る。

 いつの間にカウンターから出てきたのか、そこには宇田がいた。前回同様、ぼくに気配を悟られず寄ってくるのが上手い男だ。

「……宇田さんのバイト先がここって、知りませんでした。今まで何度も来たことがあるのに」

 もつれる舌でなんとかそう言うと、宇田はかすかに笑ったようだった。

「おれは、ここにはほとんど来ません。普段は同じオーナーが持っている三丁目の店にいるんです。今日は偶然ヘルプで」

 愛想笑いでもなんでも、彼の表情が和らいだことには安堵した。ほっとしたぼくは、緊張を隠すようにわざとらしい軽口を叩く。

「じゃあ、ぼくはすごくラッキーなんですね。もう会えないかと思っていたから」

「ラッキーって、おおげさですよ」

「……このあいだのこと、謝ろうと思っていたんです。でも宇田さんはすぐに帰ってしまうし、服も黙って置いて行って。だからてっきり怒っているのだと」

 すると、宇田は困ったような表情を見せた。

「おれには怒る理由なんてありませんよ」

「でも、ぼくは」

 正直な落胆の言葉をあしらわれたような気がして、ぼくはむきになった。語気を強めて、ドアノブにかかった紙袋を見つけたときにいかに落胆したかを訴えようとして――しかし、その前に「レジお願いします」の声が響いてくる。カウンターの方を見ると、一台だけ開いたレジの前にいつの間にか数人の客が並んでいた。

「はい!」

 宇田はぼくに目礼してレジに向かおうとする。行ってしまう。そして彼が仕事に戻ればまた話しかける機会を失ってしまう。思わずぼくは彼の手首を握っていた。

「何時に終わるの?」

 宇田は困ったような顔をして、しかしぼくを振り解きはしない。

「深夜シフトの人が来たら交代なので、十一時です」

 今は七時。さすがに四時間も待っていられない。

「……明日は」

「昼間は仕事と、夜はアルバイトです」

「明後日は」

「明後日も……」

 さすがのぼくも、それで察した。一応は話しかけてきたが、これはあくまで社交辞令的なもので、宇田はこれ以上ぼくと会う気はない。きっと個人的な関係を持つ気はないのだ。女の子をデートに誘うときと同じだ、複数の日程をあげて、それでも返事を濁された場合まず脈はない。

 落胆したぼくが手を離す。すると宇田は小さな声で言った。

「あの、会計はおれの打っているレジに来てください」

「ああ、うん」

 ――それは小さな希望だった。

 意味もなく店内をぐるぐると回って、レジ前が空いているタイミングを待ってから宇田のところへ向かう。

「すいません、今週はずっとシフトが詰まっているので……後でスケジュールを確認してみます」

 宇田はそう言って、メモ用紙の裏に何かを書きつけて折りたたむと、弁当と一緒にビニール袋の中に入れた。店を出てから期待に胸をおどらせ紙片を開くと、そこには彼の電話番号と思しき数字の列。嬉しくて、今日一日の疲れも消え去って――ぼくはそこでようやく、店に入る瞬間まで苛まれていた幻肢痛がいつの間にか消え去っていることに気づいた。

 

 偶然に助けられ、宇田の電話番号を手に入れはしたものの、すぐに連絡することはできなかった。がっついていると思われ引かれるのも怖かったし、何からどう話せばいいのか自分の中でも整理ができていない。第一、いま電話をかけたところで宇田はまだコンビニで仕事をしている。

 家に帰って風呂に入って、レンジで温めた弁当を食べてからベッドに寝転がり、ずっとスマートフォンを眺めていた。宇田の番号はすぐにアドレス帳に登録した。そういえばまだ彼の名字しか知らない。

 何時間も悩んで、寝る前に勇気を出して一通だけSMSでメッセージを送った。

 ――この間のお礼をちゃんとしたいので、いつか時間があれば会えませんか?

 お礼なんて、出任せもいいところ。あの日はビールでごまかそうとしたのに我ながら現金だ。でも「謝りたい」では重すぎる。宇田を警戒させずに、再度会う約束を取り付ける理由は他に浮かばなかった。

 翌朝目を覚ますと、返信が来ていた。アルバイト中だったのできちんと応対できずに申し訳なかったという丁寧な謝罪にはじまり、昼と夜の仕事で忙しくなかなか時間がないことの説明。その上で、休日で申し訳ないが日曜の昼間ならばあいていると付け加えてあった。

 宇田に会える。もう一度話ができる。ぼくの心はおどる。病院の予定がない日曜というのはぼくにとっても都合がいい。すぐに返信を打とうとして、指を止める。日曜の昼間に「どこで」会うことにすればいいだろう。

 彼が昼間を指定してきたのは本当にその時間しか空いていないからなのか。もしかしたら、初対面の夜の過剰な接触を気にしているのかもしれない。だったら家に誘うのは悪手だろうか。

 宇田にとってはきっと、外で会う方が気楽だろう。でもぼくは義足になって以来、一度も外食をしたことがない。座敷は無理、スリッパを履いて歩くのは苦手、足元が狭い場所で長時間椅子に座ると、膝が痛くなる。外での食事のために考えることはあまりに多すぎて、結果的に敬遠してきた。

 でも、もし宇田を家に誘って断られたら……。ぼくはしばらく迷って、悩んで、最終的に「どこかで昼飯でも食いませんか」と返信した。