こんなに緊張するのは初デート以来、いや、デートの方がまだましだったかもしれない。すでに彼女のいる友人に聞けば、どういう服装をしてどういう店を選べばいいか、ある程度確からしい情報を得ることができた。でも今回は何もかもが未知数だ。
宇田はぼくの彼女でもなければ、友人でもバイト仲間でもない。食事に誘いはしたものの、どのようなスタンスや距離感で臨むべきかは悩ましかった。もちろんこれが手術以来初めての外食ということも緊張を高める大きな理由だ。
助けてもらったお礼ということで、少しかしこまった店のランチを予約することも考えたが、それはぼくにとってもハードルが高い。宇田の服装や振る舞いを思えば、小洒落た店や値の張る店には馴染みがない可能性もあった。気楽な雰囲気でゆっくり話ができる場所――結局思い当たるのは駅近くのファミリーレストランくらいだった。
日曜日、ピークタイムを外して午後二時に店で待ち合わせた。
事故に遭う前には何度も足を運んだことのあるファミレスに入るには、懐かしさと緊張感が伴う。以前と同じようにここで気軽な外食を楽しむことができれば、ぼくにとって自信になる。逆に何か不快な思いをしたり失敗したりすることがあれば、もう二度と外で食事する気になれないかもしれない。
店の入り口は雑居ビルの二階にある。階段を使うか迷っているところにちょうどエレベーターが降りてきた。中からは車椅子に乗った老人と、家族であろう夫婦、そして子ども。ぼくは反射的に目を逸らした。
誰が車椅子を使っているとか、誰が脚を引きずっているとか、かつてのぼくはほとんど気にしなかったように思う。積極的にボランティア活動に参加するような善人ではないが、電車で目の前に杖をついている人がいれば席を譲る。他の誰でもない自分自身がそうだったのだから、こうしていま人間関係や外出に神経質になっているのは、ただの自意識過剰。ぼくが気にするほどに、誰もぼくの脚のことなど気にしない。
でも――本当に?
「土岐津さん」
名前を呼ばれて、暗い思考から意識を引き戻す。振り向くとそこには宇田がいた。最初に会った日とほとんど変わらない、ファストブランドのグレーのパーカーにデニム、足元はネイビーのキャンバススニーカー。失礼な言い方だが、どう見たって洒落たイタリアンよりはファミレスといったタイプだ。
「宇田さん、いいところで会いましたね」
それは正直な気持ちだった。先に着いた以上は店の中で待つべきだと思いつつぼくは、ひとりでレストランに入ることが怖かったのだ。
宇田は自然な動きでぼくに並ぶと、何も言わずにエレベーターのボタンを押した。
いざ足を踏み入れてしまえば、ファミレスなんて――ただのファミレスに過ぎない。ちょうどランチを終えた客が捌けるタイミングだったので、待ち時間もなかった。ぼくの歩き方がぎこちないことを店員はまったく気にしていない、もしくは気にしない振りをしているように見えた。
四人掛けのボックスシートに案内され、ぼくが先に奥側のソファに座る。宇田は向かいのシートに座りながら聞いた。
「おれ、こっちで大丈夫ですか?」
「……ちょっとだけずれてもらえると助かるかな。こっちの脚、前に出しておきたくて」
「ええ、もちろん」
ぼくは斜向かいの位置に腰を落ち着けようとする宇田に向けて続けた。
「正座やあぐらは無理だけど、椅子は大丈夫なんだ。ただ足元が狭い場所に長く座るのは……ちょっと」
義足をつけた膝を直角に曲げて長く座っていると痛みが出るから、椅子に座るときもできるだけ足元を広くとり、膝の角度を緩めておきたかった。慣れれば痛みを感じなくなるのか、ずっとこのままなのかはわからない。
「ふうん……そうなんですね」
大変ですね、などといった同情の言葉を予想していたが、宇田は感心したようにうなずくとあっさり椅子を立つ。そして当たり前のようにぼくの隣に座り直した。
「え?」
思いもよらない行動に目を丸くするぼくの肩に、宇田の肩が触れる。
「この方が、足元のスペースを気にしないですむかなって」
ふっとシャンプーのにおいがして、きっと彼は家を出る直前にシャワーを浴びたのだろうと思った。――ぼくも同じだから、もしかしたら宇田にはぼくのシャンプーの香りが届いているのかもしれない。そう思うと胸がざわめいた。そして、彼の髪の香りに意識をそらされてしまったぼくは、座席の件での気まずさをすっかり忘れてしまった。
なんでも頼んでくれ、と言ったところでしょせんファミレスなのでたかがしれている。それでも宇田が遠慮しないようせめてもの努力のつもりで、ぼくはメニューの中では高価格帯に位置するステーキセットを頼んだ。しかし彼が頼んだのは「お値打ちセット」とキャプションのついたハンバーグプレートだった。
「他にも何か、デザートとか、ビール……」
千円にも満たない金額ではとてもお礼とは言えない。何か追加で頼むよう勧めるつもりが、「ビール」という単語に一瞬気まずい空気が流れる。そうだ、このあいだの夜はビールを飲んだせいであんな展開になってしまったのだ。
結局、ステーキセットとハンバーグプレートにふたり分のドリンクバーを加えただけで注文は完了した。
「あの、宇田さん。このあいだは本当に失礼なことをしてしまって」
店員が去るのを待って、ぼくは改めて頭を下げた。今日の第一の目的は外でもない、宇田に先日のお礼と謝罪をすることだったのだ。
「気持ち悪いやつだと思われても仕方ないのに、今日も来てくれてありがとうございます」
すると宇田は慌てたように首を左右に振った。
「そんな。こっちこそ……おれがベタベタ触ったりしたから、怒らせたんじゃないかって思って……」
「まさか、怒るなんて!」
「だったらいいけど、後で冷静になったら失礼なことしたんじゃないかと思って。すみません、どんな顔してお借りした着替えを返せばいいかわからなかったんです」
つまり宇田は、ぼくの振る舞いに機嫌を損ねていたから黙って服を返したのではない。それどころか彼は彼で、ぼくに嫌な思いをさせたのではないかと気にしていたというのだ。
これが他の人間であれば社交辞令を疑いたくなるところだが、宇田の表情には心からの不安と戸惑いが滲んでいた。彼の振る舞いや言動のすべてがあまりに朴訥に見えるから、つい信じてしまう――いや、ただぼくが彼を「信じたがっている」だけなのかもしれないけれど。
「いや、こっちこそ、宇田さんに嫌な思いをさせたとばかり思ってたから。そうじゃないなら嬉しいです」
ぼくがそう答えると、宇田は軽く目を伏せた。
「それで、脚は。痛みとかは、もうないんですか?」
「え? 脚ですか……」
どうやら性的な接触のことを思い出していたのはこっちだけだったらしい。それは彼にとってあの接触が口に出すのもおぞましいからなのか、それともただ恥ずかしいからなのか――いや、でも宇田は自分から電話番号を教えてくれたし、今日の誘いに応じてくれた。ぼくのことを心底嫌悪していれば決してこんな展開にはなっていないだろう。
ぼくは自分の勘違いを恥じながらも、平静を装って答えた。
「痛むようなら義足なんてつけられないですよ。……触ってわかったと思うけど、傷は完全に塞がって普通の皮膚に覆われてます。まあ、長時間歩くと義足とこすれて痛みを感じたりはするけど、それは靴ずれみたいなもので」
「だったら、良かった」
宇田はほっとしたように息を吐いて、テーブルの下にあるぼくの左脚にちらりと視線を向けた。