第8話

 はっきりとのことを話し合ったわけではないが、打ち解けた空気のおかげでぼくはすっかり許された気持ちになった。

 宇田はさりげなくこちらの希望を聞いて、ドリンクバーからふたり分の飲み物を取ってきた。それから運ばれてきた料理を食べつつ、ぽつぽつと話をした。筋が多くてやや火を通しすぎたステーキは以前のぼくならば決してうまいとは感じなかった代物だが、久しぶりに外で、他人と一緒に食事をしているのだというだけで何よりも美味しく思えた。

土岐津ときつさんは、大学生だって言ってましたよね」

「ええ、いまは休学してるけど」

 このあいだはまともな自己紹介もしていなかったことに気づき、ぼくは自分が事故以前は大学の農学部で農薬の研究をしていたこと、修士課程のあとはできれば化粧品会社や薬品会社の研究職に就きたいと思っていることを話した。

 本当は自分が復学できるかどうかや、この脚が就職活動に悪影響を及ぼす可能性について大きな不安を抱いている。でも初対面にも関わらずネガティブな話をして、彼が帰ってからひどく後悔したことを思い出し、今日はできるだけ明るい話だけをしようと心がけた。

 一方の宇田も、彼自身のことをいくらか話してくれた。高校を卒業してから数年間浪人していたものの、その後は進学をあきらめてアルバイトの延長で生計を立てていること。ぼくのマンションから歩いて十五分ほどの場所で彼もまたひとり暮らしをしているらしい。

 いつの間にか空になった皿は下げられ、テーブルの上にいくつも空いたグラスが並んだ。それでも話に夢中になって、気づいたときにはもう夕方になっていた。腕時計に目をやった宇田が「おれ、もうそろそろ時間が」と口を開く。そういえば、空いているのは日曜の昼間だけだと言っていた。つまりのところ、夕方以降には別の予定があるということだ。

「今日もバイトですか?」

 そう質問しながらぼくの胸は少しだけ鼓動を早くしていた。何を期待しているわけでもない――と言ったら嘘になる。内心では、他の友人や恋人との予定があるという返事以外の言葉を待っていたのだから。

「ええ。コンビニじゃなくて、荷物の仕分けの方」

 話を聞く限り宇田はほとんど休みなく毎日働いているようだ。軽く笑う彼の顔はそういえば少し疲れているように見える。

 もしかしたら貴重な休息の時間を奪ってしまっただろうか。そんな不安が湧き上がるが、ぼくは彼の仕事に関しては突っ込んだ話をする気になれなかった。あくまで邪推に過ぎないが、浪人の結果進学をあきらめたということはもしかしたら学歴や望まざる仕事にコンプレックスを持っているかもしれない。複数の仕事を掛け持ちして働き詰めであることにも、もしかしたらなんらかの事情が――例えば家族の問題とか、借金とか。

 代わりにぼくは、ずっと気になっていたことを聞いてみた。きっとこれくらいなら許されるだろう。

「……宇田さんって、歳はいくつですか?」

「二十五歳です」

 控えめな態度のせいか内心では宇田の方が年下なのではないかと思っていたから、その答えは正直意外だった。

「年上なんですね。だったら敬語なんて使わないでください」

 ぼくとの年齢差は、せいぜいひとつかふたつ。たいしたものではないのにわざわざ「年上」を強調した裏には下心があったことを否定しない。そして、こちらの思惑を知ってか知らずか、宇田はぼくの期待どおりの返事をした。

「関係ないですよ、そんなの。おれが敬語をやめるなら、土岐津さんもやめてください」

 調子に乗ったぼくは、さらに続ける。

「だったらついでにもうひとつ、いいですか。『さん付け』ってぼく、どうも落ち着かなくて」

 敬語については即答した宇田は、今度は少し恥ずかしそうな顔をした。口の中で一度もごもごと練習してから、ぼくの名を改めて口に出す。

「土岐津くん……なんかこんなふうに申し合わせて呼び方を変えるのって、ちょっと照れるな」

 別に呼び捨てでもいいのに、「くん」付けで呼ぶところに、なんとなく彼らしさを感じる。

 呼び名が変わり、語尾から「です」「ます」が消えた。ささやかなことではあるが、宇田との距離がいくらか縮まったような気がして、ぼくは嬉しかった。

 

 あらかじめ先日のお礼であることは伝えていたにもかかわらず、宇田は自身の食事代を払おうとした。年上だし、働いてるし、と彼なりの理屈を並べ立ててきたが、レジ前でのちょっとした攻防をぼくはなんとか押し切った。

 店を出て、やって来たときと同じようにエレベーターで地上に降りた。なんとなくその場で別れる空気になるが、まだ名残惜しい。

 もちろんぼくのスマートフォンには宇田の電話番号が入っていて、いつだって連絡することも、食事に誘うこともできる。それでもきっと「助けてもらったお礼」という口実のある今日と比べれば二度目の誘いはずっと難しいに決まっていて――だからぼくは、焦っていたのだ。いま、この場で再び彼と会うための理由がなんとしてでも欲しかった。

「あの」と、思い切って口を開くと自分でも意外なほどその声は緊張していた。

「今日は来てくれてありがとう、実はぼく、手術以降はずっと外に出るのも気が進まなくて、外食も久しぶりだったんだ」

 ネガティブな話はしないつもりだったのに、宇田を引き止めたいという欲望が勝る。

「久しぶり? そうだったんだ」

「……自意識過剰だと思うんだけど、人目が気になって店に入るのもちょっとまだ、勇気が必要で」

 宇田の視線がぼくの左脚に注がれる。チノパンの下にある義足――いや、彼はもしかしたら「ぼくの脚が」場所、空虚そのものを見つめているのかもしれない。

「そんなに、気になるもの?」

 奇妙な声色だった。ぼくの弱気を叱咤するわけでもなく、哀れんでいるわけでもない。宇田は心の底から、なぜぼくが左脚のことをこんなにも気にしているかを不思議に思っているようだ。

 同じことを医者や宮脇に言われれば腹が立っていただろう。両親や友人に言われれば惨めになっていただろう。なのになぜだか宇田の表情や態度や声色、そのすべてがぼくを楽にする。彼といると少しだけ、いまの自分が受け入れられたような気分になれる。

「人目もだし、一番は自分がまだこの体を受け入れきれてないんだとは思う。病院でも、ボディ・イメージが一致するには時間がかかるとは言われたけど」

「ボディ・イメージ……」

 宇田が小さく繰り返すのは、馴染みのない言葉の意味を図かねているのだろう。ぼくは短い説明を付け加える。

「自分の認識している体と、実際の体のイメージが一致してないんだ。俺の脳や心はまだ左足がなくなったことを完全に理解して受け入れてない。だから齟齬が出るんだ。不思議だけど、なくなったはずの脚が痛んだりさ」

「……わかります」

 なぜだかその瞬間だけ、宇田はやけに確信を持った物言いをした。しかし、こちらがそれを不思議に感じる間もなく、いつもの感じの良い笑顔を浮かべて続ける。

「おれが空いているときで良ければ、いつでも声をかけてください。ひとりで行きづらい場所も、誰かと一緒だと気が楽だったりするでしょう? 脚の話も、聞かせてください」

「え」

「あっ……立ち入った話をどうこうという意味じゃなくて、話せば気が楽になるならっていう意味で」

 宇田はぼくの反応に驚いたようだが、思わず口ごもったのは彼を不謹慎だと感じたからではない。一連の流れがあまりに出来過ぎた展開に思えたからだ。

 さっきから、どうやったら今後の約束を取り付けられるか、ちゃんとした「友達」になれるか必死だったのに、ぼくの望むものを宇田はあまりにたやすく察して、与えてくれる。

 事故の後、弱って、不安で、それでも寄りかかる先を見つけられずにいたぼくにとって、宇田はあまりに都合よく降りてきた、それこそ蜘蛛の糸のような存在に思えた。出会って間もない他人に期待し過ぎてはいけない――わかってはいるが、動きはじめた気持ちを止めることはもはや不可能だった。