第10話

 その次に宇田に会ったときに、最近ドラマ化されたミステリー小説の話になった。昆虫学者が遺体を食べる昆虫の状況をもとに殺害の時刻や場所を解明し事件を解決に導いていくという内容で、人気俳優が主演していることもあり今クール一番の注目作品であるらしい。テレビをつけてCMを見かけない日はない。

 宇田にはテレビを観る印象はなかったので、彼がドラマのタイトルを口にしたときにぼくは少し驚いた。

「土岐津くんのこと、ちょっとあの俳優と似てるって言ってたよ」

「誰が?」

 そう聞き返したのは「言ってたよ」というのがあからさまな伝聞表現だったからだ。

「巻さん。土岐津くんがコンビニ来たときにレジ打ってた女の子。覚えてない?」

 あの日、というのが偶然宇田と再会した日のことだというのはわかる。しかし言うまでもなく、宇田のことで頭がいっぱいだったぼくは巻さんなる女性のことはまったく記憶していなかった。

「覚えてないな。宇田くん、その子と親しいの?」

「ううん、駅前店にヘルプに入ったとき偶然一緒になっただけ。でも巻さんは土岐津くんのこと覚えてるみたいだった」

 だから宇田がぼくと話しているところを見た彼女は、雑談半分であの某俳優に似た男と知り合いなのか聞いてきたのだという。

 宇田がどういうつもりでそんな話を切り出したのだかわからないが、あまり面白くはなかった。何より巻さんなる女性がぼくを記憶していた理由自体がうさんくさい。おおかた俳優云々は方便で、歩き方が奇妙な男だとでも思っていたのだろう。

「どうしたの、難しい顔してるけど」

 不快感が表情に出てしまったのか、宇田はぼくの顔をのぞきこんで、それからあわてたように付け加える。

「言っておくけど、土岐津くんが心配してるような理由で覚えてるんじゃないよ。脚の話なんて全然してないから」

「ふうん。だとしても、その子目が悪いんじゃないか。芸能人に似てるとか言われたことないし」

 フォローされて安心するどころか、ネガティブで疑心暗鬼な自分の姿をさらしてしまったことをむしろ気まずく感じた。とはいえ、その巻さんとやらの話がきっかけで、宇田が件のドラマに興味を持っていることを知れたのは怪我の功名だ。

「お昼休みに職場の人が話してるの聞いて面白そうだなと思ったんだけど、おれその時間はバイトだから観られなくて」

「え、ぼくこれまでの全話録画してるけど」

 思わず食いつき気味に答えてしまったぼくに、宇田は一瞬目を丸くした。――誓ってもいいが、その時点では一切下心などなかった。ただぼくは、自分がひとつでも宇田に与えられるものを持っていることが嬉しかったのだ。

 考えれば考えるほど、なぜ仕事の掛け持ちで忙しい宇田がまめにぼくの相手をしてくれるのかは不思議だった。ぼくにとっては脚のことをあまり気にせず付き合える宇田はいまのところ唯一無二の存在だ。しかし宇田は一体何が面白くて、足が不自由な上にネガティブな半引きこもりのぼくに付き合ってくれるのか。この関係は、あまりに彼にとってメリットが薄すぎる。

 宇田は無理をしているのではないか。このままではせっかくの交流も長続きしないのではないか。そんな不安を抱えるぼくにとっては、テレビ録画の一本でもいいから宇田の役に立てるのは願ってもない機会だった。

「DVDに焼こうか? 原作の本も持ってるから、なんなら今度持って来るけど」

 さっきの態度を反省し、今度はできるだけ落ち着いた調子でいうと、宇田は「ありがたいんだけど」と前置きしてからDVDを断った。彼はハードディスクレコーダーはおろか、再生機器も持っていないのだ。

「パソコンは?」

「一応あるけど、DVDドライブはついてないんだ」

 だったら――と、少しためらったのはがあるから。しかしあんなのはただの事故で、互いに謝罪して終わった話だ。そう自分に言い聞かせながらぼくは勇気を出して宇田を家に誘った。暇なときにうちでドラマを観ないか。

「うん、時間があれば是非」

 あいまいな返事で流されてしまうかと思ったが、宇田はその日の晩には仕事のスケジュールを再確認して、空いている日時を知らせてきた。

 宇田がぼくの部屋を二度目に訪れたのは数日後の夜のことだった。珍しく夜のアルバイトが入っていないのだという。

 ぼくはその日の午後まるまるかけて入念に部屋を掃除した。普段の雑然とした様子を見られているのでいまさら取り繕うことに意味はない。どちらかといえば、そわそわする気持ちを紛らわせる現実逃避だったのかもしれない。

 何も持ってこないで良いと言っておいたにもかかわらず、宇田は弁当屋のロゴが入ったビニール袋を手に持っていた。もしかしたら今日は飲みたくないという意思表示なのではないかと深読みしてしまい、逡巡しつつも何も準備していないと思われたくはない。

「もし食べたいものがあれば、適当につまんで」と、何も気にしていない振りをして、買っておいた惣菜とビールをテーブルに並べた。意外にも宇田はすぐにビールの缶に手をだしたので、何もかもは考えすぎだったのかもしれない。

 録画したテレビドラマを観ながらぼくと宇田は弁当を食べ、ゆっくりとしたペースでビールを飲んだ。

 主人公である昆虫学者は、飛び級で大学に入学して史上最年少で准教授になった変わり者の天才という設定だ。身だしなみにかまわないキャラクターではあるが、そこはやはりドラマだし演じるのは俳優だ。伸びすぎた癖っ毛もセルフレームのメガネも計算されつくした「ダサい風イケメン」は、やはりぼくとは似ても似つかない。

「やっぱそのコンビニの女の子、目が悪いんだと思う」

 思わずつぶやいていた。

 自意識過剰なのはわかっているが、宇田から巻さんとやらの話を聞いて以来ぼくは例の駅前のコンビニを避けるようになった。商品が一番好みなのはそのチェーンなのに、自分の存在を認識しているバイトがいるかもしれないと考えると足を踏み入れる気になれないのだ。この俳優の話がきっかけで生活のクオリティがいくらか低下したと思うと恨み言のひとつも言いたくなる。

「そうかな。でも土岐津くんも大学で研究してるときは、あんなふうに白衣を着てるんでしょう? 実験に昆虫を使うって話もしてたし」

 宇田の言葉はフォローにすらなっていない。あまりに的外れな言葉にぼくは苦笑いした。

「……白衣とか、虫で実験とか、それって似てる似てないとは全然違う話でしょ」

「あ、そうか」

 指摘されてはじめて気づいたかのように宇田は大真面目にうなずいてみせた。それからテレビ画面を見ていた顔をこちらに向ける。

「でもよく見たら。眉の感じとか、鼻のかたちとか……ちょっとだけ」

 思った以上に近い距離からじっと見つめられて、ぼくはひるんだ。だがこちらの動揺に気付いているのかいないのか、ともかく宇田はまったく臆することなくぼくの顔のパーツを吟味し続けた。

 他人からこんなにまじまじと見られたことはないので、ひどく恥ずかしかった。その一方でなぜかぼくは宇田を止めることも目を逸らすこともできずに、どぎまぎしながら彼の顔を見返した。

 こだわりなくカットされた髪に、特に整えている様子のない眉。その下の丸っこい目や、細いけれど意外と筋の通った鼻、薄い唇から尖ったあごに至るまで順番に眺めるあいだ、ぼくはひと言も口をきかず、それは宇田も同じだった。

 ドラマはちょうど山場。テレビからは犯人に対して厳しい声で犯罪を追及する主演俳優の声が響いてくる。

 ぼくが欲望に負けたのか、それとも宇田が沈黙で誘っているのか。でもそんなこといまさらどうだっていい。確かなのは、ぼくの手がいつの間にか宇田の頬に伸びて、気づけば唇が重なっていたことだけだった。