第11話

 普段のあまり感情の起伏を見せない様子から、どうやらぼくは自分でも気づかない内心で、宇田の体温は低いものだと思い込んでいたらしい。しかし導かれるように触れた彼の唇は意外にも温かくて、少し濡れていて、ほんのりとビールのにおいがした。

 軽くゆっくりと口づけてから、同じくらいゆっくりとした仕草で離す。いつの間にか閉じていた目を開けると、宇田はじっとぼくを見つめていた。あまりにまっすぐな瞳に、二度目のキスをする勇気はしぼんだ。

「ごめん」

 思わずぼくは、謝罪の言葉を口にした。

「どうして謝るの」

「どうしてって……」

 そんなことを聞かれたって困る。言葉に詰まりながら考えて、ぼくは「怖いから」という理由に思い当たった。

 彼の表情に嫌悪の色はないが、だからといって嬉しそうにも見えない。だからぼくは、宇田がぼくの衝動的な行為をどう受け止めているのかがわからずうろたえているのだ。

 どうして、なんて聞きたいのはこっちだ。急に男からキスをされて宇田は平然としている。きょとんとこちらを見つめるその表情は、例えるならば肩についていた埃を取ってもらったときのような。

 ぼくが宇田に惹かれはじめているのは確かなこと。宇田はぼくのことをどう思い、ぼくとの関係をどう受け止めてここにやってきたのだろう。でも、それをいま口にすれば、せっかくここまで積み上げてきたものが崩れ去りそうな気がする。

「宇田くんって冷静だよね」

 いま言える精一杯が、それだった。

「え? そうかな?」

「うん。だって普通こういう……急に男からキスされたり、このあいだみたいに、ほら」

「ああ」

 彼の笑顔からは余裕すら感じられる。まるで、まだそんなことにこだわっているのかと言わんばかりに、宇田はぼくの心配を軽く流してしまった。

 浮かび上がるのは別の種類の不安だ。もしかしたらこんななりをして意外と宇田は、色ごとに慣れているのだろうか。ろくに知らない同性と肌を触れ合わせることにも動じない程度に……。墓穴を掘るかもしれないとわかっていながら、ぼくは続きを口にせずにはいられなかった。

「その、嫌だとか気持ち悪いとかさ」

「別に、そんなことないよ」

「でもぼくだったら、片脚の男がずぶぬれで道端に座り込んでたら警戒するし、お近づきになりたいとは思わない」

 否定されるほどに疑念が深まり、無意識に語気が強くなっていた。宇田の優しさを疑いたいわけではない――いや、もしかしたら疑おうとしているのかもしれない。宇田がぼくと一緒に出かけてくれるのも、誘えば部屋にきてくれるのも、キスをしても拒まないのも「ただの優しさ」ではなくそれ以上の感情を持ってくれているからであれば良い。期待は、いつの間にか胸の中で大きく膨らんでいた。

 ぼくの勢いにおされるように少しだけ体を引いて、宇田は戸惑ったように笑う。

「おれは逆に、土岐津くんがそういうことを気にするのが不思議だよ」

 口調はフラットだったが、気にしていたことを言い当てられたぼくはひるむ。

「……自分でもネガティブだし、被害妄想がすぎるとは思うよ」

 だからこそ既存の人間関係に臆病になり、新しく目の前に現れた宇田という人間にのめり込みかけている。だって彼はぼくがこうして弱い部分や醜い部分をさらけ出しても、失望した顔をしないし哀れむ様子もみせない。

 宇田は軽く首を傾げてからテーブルの上のリモコンに手を伸ばし、再生停止ボタンを押した。ふたりとも、もうドラマなどちっとも見てはいない。

「土岐津くんの事故、ひどかったの?」

 彼の側から事故について聞かれるのははじめてだった。これまでその話をしないのはきっと、こちらに遠慮していたのだと思う。だとしたら、いま彼があえて事故のことを話題にするのは――一歩踏み込んでぼくに向きあおうとしてくれるから、と考えるのはおめでたすぎるだろうか。

「自分じゃ覚えてないけど、交差点に突っ込んできたトラックのタイヤに巻き込まれて、手の施しようがないくらい潰れてたみたい。いまどき、けっこうな怪我でも保存できるくらい医療技術は進んでるらしいんだけど、それすら及ばなかったって。目が覚めたら脚がなくて、そのときはびっくりくらい冷静だったんだけどね」

 話しながら、久しぶりに事故直後のことを思い出す。

 ストレッチャーの中で一度意識を取り戻したが、すぐにまた麻酔で眠らされてしまったこと。意外なほど落ち着いていて、自分の脚の骨が入った小さな骨壺と対面したがって母親に叱られたこと。

 あのときはまだ片脚を半分失うということをよくわかっていなかった。左膝下をなくすということは、それに付随して、それまで当たり前だった習慣や生活や将来得られるはずだったものなど、たくさんのものを失ってしまうことを意味する。

 そして、失ったものを簡単に忘れて新しい生活に馴染んでいけるかといえば答えはノー。足に残る幻肢と同じように、ぼくはいつまでも、かつての自分のイメージを手放せずにいるのだ。

「脚がなくなるって、どんな感じ?」

 遠慮のかけらもない質問。控えめなイメージのある宇田だが、ときおり驚くほどストレートな言葉を投げてくる。けれどそれは、ぼくは宇田の言うことには傷ついたり怒ったりしないとわかっているからなのかもしれない。彼がぼく自身に対する興味関心を口にすることには実際、悪い気はしない。

 それにしても、あまりに直接的で根源的な問いかけだ。脚がなくなるって、どんな感じ? 手術を終えて八ヶ月近く、毎日のように向き合っているはずなのに、ぼくは宇田の質問に端的に答えることができない。

「どんなって、変な感じだよ。まだ慣れないし、もしかしたら永遠に慣れないかもしれない……」

 変な感じ、というあまりに抽象的な言葉しか出てこない自分の表現力が情けなかった。

 宇田はぼくの答えに小さくうなずいてから、視線を落とした。今日のぼくは義足を履いたままで宇田を迎え、今もそのままベッドサイドに腰かけている。

「ちょっとそれ、外してみてくれる?」

「え……あ、うん」

 一度自分から見せたことがあるとはいえ、義足やそれを外した場所など決して晒したいわけではない。しかし、宇田の要求にはあらがいがたくて、ぼくは言われるがままにスウェットを膝上までまくり上げ義足を外しにかかった。

 本当は恥ずかしい。義足もシリコンライナーも外した剥き出しの断端を見られることには、まるで全裸を見られているような羞恥を感じた。

 前のときと同じように、宇田はぼくの膝の関節下、すとんと切り株のように平らになった場所をじっと眺めていた。それから断端の少し上にある擦り傷に手を伸ばす。

「傷があるね」

 うん、とぼくはうなずく。

「最初から皮膚だった場所に比べると弱くて、すぐ傷になるんだ。体重がかかるし汗も溜まるから摩擦で傷ができやすくて」

「だから、触れられると敏感なのかな」

 何かを思い出してそんなことを言っているのか――それとも含意などないのか。しかし宇田の指がいたわるように擦り傷を撫でる感触に、ぼくは過剰に反応する。指先が肌を撫でるたびに背筋がぞわぞわし、体はその感覚の名前を探す。

 不快――くすぐったさ――いや、これは。

 快感。

「宇田くん……まずいよ」

「触られるのは嫌なんだっけ」

 前回のことを忘れたはずはないのに、彼は平然としている。ぼくは焦った。宇田を止めないといけない。このままだとまた前のように勃起してしまうかもしれない。一度だけなら偶然と言えるが、二度繰り返すようならば、ぼくは脚の傷口に触られて興奮するおかしな嗜癖の人間ということになる。

「……もともと皮膚だった場所じゃないから、そこに触られるのは変な感じがするんだ。それに宇田くんだって気持ち悪くないのか? 他人の、脚の切断面だなんて」

「思わない」

 宇田はきっぱりとぼくの言葉を遮った。

 彼は僕の足の断端を撫でながら、その先の何もない場所を見つめる。視線はうっとりするように、いつの間にかある種の色気を含んで濡れている。触れ方だってまるでぼくを煽っているみたいに――そして彼は言った。

「土岐津くんの脚は、すごくきれいだよ」