第12話

 きれい。それは脚を失う以前を含め一度だって言われたことのない言葉だった。そもそもモデルや芸能人のような容姿をしている特殊な人物を除けば男相手に使うことは少ない言葉だし、何よりもぼくの左脚を形容するにはあまりに不似合いだ。

 だが目を丸くして言葉を失うぼくをよそに、宇田は至って真面目な顔で薄い皮膚に包まれた断端を撫で続ける。ふざけているわけでも、からかっているわけでもない。短い付き合いながらも彼が気安く冗談を口にするタイプでないことはわかっていた。

 胸の奥から湧き上がる、この感情をなんと呼べば良いだろう。

 医者から看護師から親から友人から気の毒そうに投げかけられた「大丈夫だよ」「生きてただけでよかった」「何とか前向きに」――それらの言葉すべてが純粋な善意から出たものであると理解して、それでもぼくは失望を募らせてきた。

 やっと、いまのぼくに必要な言葉を与えてくれる人に出会えたのかもしれない。たまらず宇田の首筋に手を回して再び口づけた。さっきだって拒まなかった。前回の件があるのに宇田はためらわずぼくの体に触れる。だからきっと大丈夫。なぜだかわからないけれど、宇田はこんなぼくを許して肯定して受け入れてくれている。それは確かなことのように思えた。

 さっきは軽く触れ合わせただけだったが、もちろん二度目は欲深くなる。強く押し付けた唇の角度を変えて、感触の違いを楽しむ。それから軽く口を開いて彼の唇をついばんだり、ゆるく噛んだりした。

「宇田くん……」

 息継ぎのために一度唇を離し名前を呼ぶと、宇田の目は潤んでゆらめいた。そのゆらぎを合意と受け取めたぼくはキスを続けながら、彼のふとももに下腹部を押し付けた。と同時にバランスを崩した体が傾き、宇田を押し倒すようなかたちでふたりベッドに重なり合う。決して下心を持ってベッドに座っていたわけではないが、学生にありがちな狭小ワンルームもこういうときには役に立つ。

 宇田は決して小柄ではないが、長身の部類に入るぼくよりは額の分くらい背が低い。そしてぼくより細身だ。とはいえ片脚のハンデがあるので抵抗されればこちらの分が悪いだろう。しかし宇田は流れに身をまかせたままだった。

 短い左脚の膝をついて体を反転させ両膝と両腕で宇田を囲い込みながら、以前医者や宮脇や装具士にかけられた言葉を思い出して、ふとおかしくなった。

「……どうしたの? 笑ったりして」

 急ににやついたぼくを奇妙に思うのは当たり前のことで、宇田はこちらを見上げながらそうたずねる。

「いや、脚を切った当初あちこちで『膝が残っただけ良かった』って言われたんだ。関節が残っているのといないのとでは、全然できることの幅が違うって……」

 まだ松葉杖の扱いにすら慣れていないぼくに、その言葉は慰めとほど遠く思えた。当時は義足をつければ再び歩けるようになると言われても半信半疑だったし、正直――こんな不自由な体で生きていくならば、いっそ命を落とした方がよかったのではないかと頭をかすめることもあった。

 でも、彼らの指摘は正しかった。

「まさか、あの言葉の意味をこんな場面で実感するなんて、と思って」

 いまベッドの上で比較的スムーズに体勢を変えることができているのは、間違いなく膝関節が残っているおかげだ。五体満足の状態に比べれば安定感には欠けるが、膝さえあれば一般的なセックスには意外と苦労しないのかもしれない。それ以前にもちろん、ぼくは同性同士でのセックスの方法を詳しくは知らないし、自分がそこまでの欲望を宇田に抱いているかどうかもわからないのだが。

 感情に名前をつけないまま、行為の目的もわからないまま、ぼくは自分の下に横たわる宇田に貪欲にキスをして、その下半身に手を伸ばした。宇田のそこはまだ兆してはいないが、彼がお返しのように触れてきたぼくの下腹部はすでに角度をつけはじめている。

 事故以来はじめて他人に触れられて勃起した驚き――しかも相手が初対面の同性――という動揺と、久しぶりの興奮で我を忘れていた前回よりはいくらか冷静だったと思う。

 右手で服の上から彼の股間をまさぐっていると宇田が身じろいだ。

「……このままじゃ、汚れる」

 また着替えを借りるようじゃ申し訳ないから、と付け加える。こちらとしてはなんだって貸してやって構わないが、服を清潔なままにしておけるならばそれに越したことはないだろう。はやる心を抑えてベルトに手を伸ばした。

 宇田は協力的で、ズボンを下ろすときには自ら腰を浮かせてくれた。たたんでやる余裕はなかったものの、できるだけしわにならないように、ぼくは彼の両脚から抜き去った服を床に落とした。

 ダークグレーのボクサーブリーフから伸びる両脚はすんなりとして、冬を越えたばかりだからか、生白い色をしている。鍛え上げた筋肉にまとわれているわけでもないし、女のように細くて柔らかいわけでもない。以前のぼくだったら気にもかけなかったであろうが、やけに眩しく映る。

 そういえば脚を切断して以来、他人の裸の脚には目をやらないようにしていたっけ。だって、見ればどうしても死んでしまった自分の脚を――いまでは小さな骨壺におさまって実家の仏壇に備えられている骨や灰のことを思い出してしまうから。

 しかし、骨張って薄い筋肉に覆われた宇田の脚を見つめても不思議と嫉妬や苦しみは湧いてこない。あえて言うならば彼がぼくの脚について述べたのと同じ「きれい」という感情が一番近いのかもしれない。

 そう、中途半端な場所で断ち落とされたぼくの脚なんかより、宇田の脚の方がずっと美しい。

 ネイビーの靴下を履いたままの足指が、視線に戸惑うようにむずむずと動く。くるぶしは丸く張り出して、その少し上で靴下の履き口がわだかまっている。ズボンを脱がせるときに引っ掛けてしまったのだろう。その先にはまっすぐに脛から膝に向かい――止まる。

 彼の左膝の皿からすぐに下、ちょうどぼくが脚を切断したのと同じあたりに傷が横切っていた。よく見なければわからない程度に細く短いが、うっすらケロイド状に引き攣れた跡が残る程度には深い傷。それが重なり合うように二本、いや三本か。

 美しい彼の脚を汚す古傷に視線を奪われていると、宇田が不審そうに顔を上げた。欲情たっぷりに押し倒してきたかと思えば突然動きを止めたことをきっと奇妙に思っているのだろう。

「土岐津くん?」

 口づけの名残なのか声色はかすかに甘くて、まるで先をねだっているかのような響きすら混じる。ごめん、とつぶやいてぼくは視線を彼の顔に戻し、しかし思わず疑問を口にしてしまった。

「……宇田くん、脚に傷が」

「傷?」

「膝下に、なんか薄いケロイドみたいなのがあったから……別にだからどうってわけじゃないんだけど」

 聞き返してくる宇田の言葉をしらじらしく感じてしまったのは、考えすぎだろうか。おかげでぼくの返事も言い訳がましいものになった。

 しかし宇田はすぐにいつもの優しい調子に戻る。

「ああ、子どもの頃ちょっと怪我しただけ。どうってことない古傷だけど、気になる?」

「いや、本当にうっすらとだし、ぼくは多分普通の人よりも他人の脚を気にしがちなだけで」

 ぼくが左脚の切断について積極的に触れたくないのと同じで、いくら薄いものだとはいえ、誰だって古傷を指摘されたくはないはずだ。自分のことばかり考えて宇田への配慮が欠けていたことに気づいて恥ずかしくなった。

「宇田くんの脚、すごくきれいだと思う」

 彼から与えられた言葉のおうむ返し。それでもいまの自分にとって精一杯の褒め言葉のつもりだ。ごまかすように早口で告げると、ぼくは宇田の首筋に顔を埋めた。