第13話

「あ、そろそろ時間だから行かなきゃ」

 時計に目をやった宇田が、そう言って腰をあげた。

「今日もコンビニ?」

「ううん、宅配仕分けの方」

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。昼過ぎに待ち合わせて喫茶店でコーヒーを飲みながら話をしているうちに、もうアルバイトの始まる時刻が近づいていたのだ。

「――暑そうだな」

 並んで店の外に出ると梅雨の晴れ間の日差しはまるで真夏のようにまぶしい。家までの道のりすら億劫に思える。しかし宇田はこれから夜まで空調すら十分ではない配送センターでひたすら宅配便の荷物仕分けだ。甘えたことは口に出せない。

「じゃあ、次はまた水曜?」

「そうだね。多分定時だけど、遅くなりそうなら連絡する」

 手を振ってからも、しばらく宇田の背中を眺めていた。未練がましいぼくと比べて、彼は一度も振り返らず通りを渡って消えていった。

 平日はほとんど昼と夜のダブルワーク、日曜も夕方にはアルバイトという過酷な働き方をしているにもかかわらず宇田は愚痴を言ったり、疲れた様子を見せたりすることはない。辛抱強い性格を尊敬する一方で、彼が弱みをさらさないのはまだぼくに心を許していないからなのではないかと寂しく思うこともある。

 宇田と出会ってから早くも二ヶ月が経つ。

 春は過ぎて、少し前に関東甲信越地方も梅雨入りした。ぼくの体調は安定し、歩行技術も向上した。それでも一度転倒して動けなくなったトラウマのせいでいまも雨の日に出歩くのは好きでない。一日も早く梅雨が明けて欲しいと願ってはいるが、義足で過ごす最初の夏への不安もあった。

 はっきり決めているわけではないが、ぼくと宇田はたいてい週に二度、日曜と水曜に会う。日曜は宇田の昼間の仕事がないので、外で待ち合わせて用事に付き合ってもらったり、今日のようにお茶を飲みながらだらだらと話したりする。

 水曜は宇田の夜の副業がない日で、コールセンターの仕事を終えた彼が弁当を買ってぼくの家に寄る。それからテレビを見たりゲームをしたり――そのまま流れでキスをして、互いの体に触れることもある。いや「こともある」というのは適当ではない。宇田が部屋に来たときに手を伸ばさずに堪えるのはあまりに難しい。

 宇田が自分から求めてくることはないが、ぼくが彼に手を伸ばせば決して拒まないし、同じような情熱で触れ返してくれる。最初はぎこちなかった手の動きも、相手の弱いところを知り尽くしたいまではずっとスムーズに、的確に快楽を呼び起こすようになっていた。

 女性との経験はあるし、細く柔らかい肉体に不満を抱いていたわけではない。むしろ宇田と過ごす時間が長くなればなるほど、なぜ自分が硬く骨張った体を持つ男相手に欲情できているのか、そして宇田が応じるのかという疑問は高まるばかりだ。

 たまに、この欲望はあまりに自分勝手で宇田に対して失礼なのではないかと悩むこともある。片脚を失ったぼくは弱って自信を失って、新しい恋愛などとても考えられない状況で――だから、とりあえず目の前にいて優しくしてくれる宇田を都合よく頼っているだけなのではないか。ただ手近な性欲処理相手として利用しているのではないか。

 でも、それが正直な気持ちであったとしても、ぼくは宇田を手放したくないと思っている。この世界でいま、ぼくの醜い脚を愛撫して「きれいだ」と言ってくれるのは宇田しかいないのだから。

「宇田くんは、恋人とかいないの?」

 一度だけ、勇気を出して訊ねたことがある。彼がぼくに告げる仕事のシフトが事実であれば、恋人と付き合う時間的な余裕などないと知った上で、言質が欲しかった。

「いないよ」

 宇田は短い言葉で否定した。もしもあのとき宇田が、ぼくと彼の関係をどう呼ぶのかと問うたならどう答えただろう――。でも彼はそのまま雑誌に目を落としたから、話はそこで終わってしまった。

 次の水曜は、検診のために通院することになっていた。手術後の状態は安定し、歩行は下腿義足使用者としては十分なレベルに達した。膝下切断という大きな後遺症の残る事故だっただけに「治癒」とは呼べないのだろうが、そろそろ定期的な検診やリハビリは終了して良いのではないかという話も出ている。

 とはいえ気になるのは、まもなくはじめての真夏を迎えるということだ。いや、すでに問題は生じている。

 義足を着用するには、左脚の切断部にカバー状のシリコンライナーを装着し、そこから伸びるボルト状の器具を義足本体に接続する。問題というのは至極単純なもので、つまり「シリコンライナーがひどく蒸れる」ことだ。内側に汗が溜まるとか、あせもができるとか、話は聞いていたが実際に夏が近づくと不快感は急激に高まっていた。

 整形外科の検診でその話をしたところ、せっかくだから皮膚科にも相談していくようにと勧められ思いのほか時間がかかってしまった。しかもやたらと会計が混んでいて、宇田がやってくるまでに帰宅できないのではないかと、ぼくはそわそわしていた。

 一応「病院で時間がかかっている」旨のメッセージは送ったが、宇田から返信はない。急がないとマンションの前で宇田を待たせてしまうかもしれない――そんなことを考えていると電話が鳴った。宇田だった。

 普段は「ちょっと打ち合わせが」とか「最後の一件が長引いて」とか、時間通りに仕事を終えることが少ないのに、こんな日に限ってぴったりの時間に退社できたのだという。

「ごめん、ちょっと病院で時間がかかってて。あとちょっとで支払いの順番が来るんだけど……」

 この脚では急いで帰るにしたって限界がある。宇田をどこかで待たせるのも申し訳ないけど、自分から今日はやめておこうと言いだす潔さもないぼくは口ごもった。だから、宇田が病院最寄りの駅で待ち合わせようと申し出てくれたときには驚いたし、嬉しかった。

 会計を終えて駅に急いでいると、背後から声をかけられる。

「土岐津さん、あんまり慌てると危ないですよ」

 振り向くと、宮脇がいた。リハビリのときはぱりっとした白衣を着ているが、今はカジュアルなスポーツウェアを着ている。

「ああ、今日は仕事終わったんで。すいません、駅前のジムに寄るんでこんな格好で」

 服装に注目されていることに気づいた宮脇はそう言って笑った。正直この理学療法士に構っている気分ではないのだが、追いつかれれば振り払うのも不自然な気がして、結局並んで歩く羽目になった。

「脚の具合はどうですか」

「歩く方は問題ないんですけど、やっぱりこれからの季節は汗ですよね。義足ブログとか読んでても、真夏は地獄っていう記事ばかりで」

「そうそう、義足の手入れもだし体調も気をつけないと、汗くささだけならまだしも、熱中症でぶっ倒れた話とか聞くからね」

 汗くささだけでも相当な問題だが、熱中症で昏倒など洒落にもならない。しかもそれをどこか楽しそうに口にする宮脇の不謹慎さにぼくは思わず顔をしかめた。

「怖い話で脅すのやめてください」

「いや、でも本当にあるんだって……俺の患者さんでも……」

 その先は聞き流しながらしばらく歩いていると、駅前の交差点に差し掛かる。青信号の横断歩道を渡りながら、やっとこのおしゃべりから解放される――そう思って顔を上げると、ちょうど駅舎から出てきた宇田の姿が目に入った。

「じゃあぼくここで。友達と待ち合わせてるんで!」

「え、ああ。お大事に」

 申し訳程度に宮脇に頭を下げて、ぼくは出来る限りの早足になった。

「宇田くん!」

 きょろきょろと周囲を見回している宇田に向かって少し大きな声をかける。彼がぼくを探しているのだと思うと、黙ってはいられない。

 すると振り向いた宇田がぼくを見て、それから視線をさらに動かす。ぼくより半メートルほど後ろ。とりあえず信号を渡り終え宇田の視線を追うと、そこにいるのはもちろん――。

 なぜだか宮脇も立ち止まっていた。そして、つぶやく。

「……真輔」

 それが宇田の名前だということは知っている。でもなぜ宮脇がそれを知っているのだろうか。宇田がぎこちなく笑ってこちらをみた。

「宮脇さん、宇田くんと知り合いなんですか」

 彼が宇田を呼び捨てしたことに対する違和感と不快感をにじませたぼくに、宮脇は驚いたように言った。

「土岐津さんが言ってた友達って……真輔だったのか」