第14話

 宇田は、ぼくと宮脇がほとんど並ぶように立っている場所まで歩いてくるべきか、それとも立ち止まったままでいるべきか迷っているようだった。顔にはあきらかな戸惑いが浮かぶ。

 しかし不穏な空気が漂っていたのもほんの短い時間だった。初夏の夕方の風がふっとぼくたちの頬を撫でて、それが去ったときには宇田は完全にいつもの調子を取り戻しているように見えた。

「土岐津くんがK総合病院にかかっているのは知ってたけど、まさかしょうちゃんと知り合いだったなんて。久しぶりだね」

 こちらへ近づいてきた宇田は宮脇に笑いかけた。

 宮脇の名前が笙平しょうへいであることも、ぼくにとってはすでに知っていることだ。彼がリハビリ担当に決まって最初に顔を合わせたときにフルネームを書いた名刺をもらったし、病院で渡される書類のあれこれにも彼の名は出てくる。それでも宇田が親しげに呼びかける姿には違和感しかなかった。それどころか「真輔」「笙ちゃん」と呼び合うふたりに挟まれた自分だけが場違いにすら思えてくる。

「えっと、ふたりは……」

 ぼくは質問を繰り返した。ついさっき口にした「宮脇と宇田は知り合いなのか」という問いに、宮脇はまだ返事をしていない。それは意図的に答えを避けたというよりは、彼もまた突然の宇田の登場に驚いているからなのかもしれない。

 先に答えたのは宇田だった。

「実家がお隣同士なんだ。笙ちゃんには子どもの頃よく遊んでもらって。兄貴分っていうか」

「実家?」

 思わず聞き返したのは、リハビリ中の雑談で、宮脇が病院には実家から通っていると聞いたことがあったからだ。宇田とは一度も彼の出身地について話したことはない。というか宇田自身の話をするといつもさらりとかわされて、気づけば別の話題に誘導されているのだ。わざわざひとり暮らしをしているということはきっと地方出身者なのだろうとぼくは内心で決め付けていた。

 普段の口の重さが嘘のように、宇田はここから真南に数十キロくらいの場所にある隣県の都市の名を挙げて、そこに実家があるのだと言った。隣県とはいえ電車を使えば十分通勤通学圏だ。

「笙ちゃんはまだ同じ病院で働いてたんだね。どうしたの今日は?」

「今日は早めに仕事が終わったから、そこのジムに」

「そうなんだ。じゃあ、おじさんとおばさんによろしく」

 宇田の態度に不審な部分は――あるといえばあるし、ないといえばない。適度に親密な口ぶりと、適度によそよそしい態度。ぼくも実家に戻ったときに、数年振りに顔を合わせる親類や近所の人には同じように振る舞っているような気がする。ということはつまり、これは本当にただの偶然で、宮脇の宇田の間柄はぼくが訝しむようなものではないのだろうか。

「じゃ、じゃあ宮脇さん。失礼します」

 話を打ち切った宇田に合わせるように、ぼくは改めて宮脇に小さく会釈をした。

「じゃあ……」

 軽く手を挙げた宮脇は歯切れが悪い。リハビリ室での快活で饒舌な彼の姿からすればあまりに奇妙で、言いたいことを我慢しているような姿は、ぼくの心に疑念を残した。

 宮脇に背を向けると宇田はやたらと早足で駅に入って行き、やがてぼくが遅れていることに気づくとハッとしたように脚を止めた。

 やはり宇田も動揺している。それはきっと宮脇と会ったことに関係しているのだろう。

「宇田くん……あの」

「土岐津くん、夕ご飯どうしようか。せっかくだからどこかで食べていく? それともお弁当にする?」

 静かではあるが、普段の宇田からは想像できない「圧」を感じさせる言葉だった。ぼくは勢いに負けて口をつぐむ。それ以上電車の中でも、最寄駅を降りて弁当屋に寄って帰るあいだも、宮脇の話題を出す気にはなれなかった。

 

 それでも釈然としない気持ちは残った。テレビをつけて食事をしていても、片付けを終えてインスタントコーヒーを手に雑談をしていても宮脇の姿が頭をちらつく。

 別に彼らが幼なじみでも、久しぶりの再会でもいいじゃないか。知り合いふたりに偶然面識があった。確かに頻繁にあることではないが――だからといってあり得ない話ではない。「奇遇だね」で済ませていいはずなのに、ぼくを挟んで宇田と宮脇のあいだにピリッと走った緊張感のようなものが忘れられない。

「あのさ、さっきのことだけど」

「さっき?」

 聞き返すのは誤魔化そうとしているからなのか。柔らかい言葉の奥にある宇田の真意を図りつつ、ぼくはもう少し押してみる。

「いや、宮脇さんと宇田くんがご近所だったってこと。ぼく宇田くんのこと地方出身だと思ってたから、ちょっと驚いたよ」

「地方出身って、おれそんなこと言ったっけ」

「いや、勝手な思い込み。ただ、実家が近いのにひとり暮らしってあんまり周囲にはいないから」

 親の干渉を避けたいという理由で、あえてひとり暮らしを選んでいる知人は何人かはいる。とはいえ親が投資用のマンションを持っているからとか、親が裕福でひとり暮らしの費用を出すのに躊躇しないとか、そういったケースばかりだ。

 わざわざ安くないコストをかけてひとり暮らしをするにしては、宇田の暮らしは慎しすぎる。かといってあえて親を避けるような、たとえば女の子を連れ込んでいるといった話も聞かない。

 ――そこでふと立ち止まって考える。いや、宇田の実際の生活ぶりをどれほど知っているというのか。だって彼は住んでいる場所を聞いてもぼんやりと「○丁目の整骨院の近く」と答える程度で、一度だって部屋に誘ってくれたこともない。

 ぼくは宇田に惹かれているから、彼がどのような生い立ちでどのような生活を送っているかに興味を持っている。なのにはっきりと聞くことができずにいるのは、宇田が明らかに自分自身について話すことを避けているからだ。そして切り詰めた生活や過剰ともいえる働きぶりを見る限り、彼が何かの事情を抱えているのではないかと疑ってしまい、ぼくは強く踏み込めない。

「近いっていうほど近くもないよ。それに、いつまでも実家暮らしっていうのもなんだか気詰まりだし」

「……それに、ぼくがK病院に通ってるって知ってたのに、宇田くんは一度も宮脇さんの話なんてしなかった」

 いま、この会話だけでもぼくにとってはずいぶん勇気を出しているつもりだが、宇田はやはり、柔らかくも掴みどころのない答えに終始する。それが不満で思わずぼくの言葉は恨みがましいものになった。

 呆れているのか、宇田の顔には苦笑いが浮かんだ。

「だって笙ちゃんとも何年も会ってないから。実家にいる頃に『病院で働いてる』くらいの話は聞いてたけど、K病院だってことも今日会って思い出したくらいだよ」

「ふうん」

 滑らかな言い訳に破綻はない。

 宇田は果たして本当のことを話しているのだろうか。

 これはただの、ぼくの醜い嫉妬なのだろうか。

 気持ちの収め方がわからず、かといってこれ以上追求することのナンセンスさもわかっているのでぼくは黙ってしまった。

 少しのあいだじっとこちらを眺めてから、宇田が手を伸ばしてぼくの眉間のあたりを指先でぐりぐりと押した。

「土岐津くん、どうしたの? 眉間に皺が寄っちゃってる」

 思わぬスキンシップ、こういうのが計算尽くなのだとすれば宇田は素朴な外見からは想像できない曲者だ。いずれにせよ、彼の手の感触のせいでぼくの気が削がれたのは確かだった。

「いや、ちょっと……宇田くんと宮脇さんが下の名前で呼び合って仲良さそうに見えたからさ」

 これではほとんど嫉妬を明かしているようなものだ。いくらキスをして触れ合っても、ただそれだけ。ぼくと宇田のあいだには何の感情の確認も約束もないというのに――。